農樹創業物語
農業、農村が廃れ(すたれ)ゆくのは何故だろう。それは、魅力が無いからだ…。農業、そして農村は、貧乏たらしく、働き口も、稼ぎも少ない。
それゆえ、人が出て行き、寄りつかない、帰ってこない。
1995年3月まで、東京の建設・土木コンサルタント会社で、国内の環境や、途上国の農業・農村開発の仕事に携わるサラリーマンでしたが、日本の農業、農村の現状(いま)へ一石を投じてみたいと、「想い」が高まり、心が沸き立ち、抑えきれず、30歳で退社して、『農樹(のうじゅ)』を立ち上げたのでした。
ロゴマークには、その時の想いを込めました。
力強く農村に立つ1本の「樹」。光に向かって自由に枝葉を伸ばしていく。
こんもりと茂った1本の樹は、決して浅はかではなく、何かに頼られ、寄りかかられても、びくともせずに立っている。
それは、枝葉の広がりと同じだけの根を大地に広げているからこそ、傾くことは無い。
そんな樹のもとに、人が集い、語らいが始まる。創意と希望に満ちた、未来の話の輪には、若者が、子供たちが加わって、果てしなく続く夢になる。そう信じて、独立独歩、生きてみよう。そして、『樹』になろう。
自己資金ゼロ、農業基盤ゼロ、よそ者の非農家出身者、元サラリーマンが、妻と子の3人、都会から移り住み、借地で農業を始めたのが1995年のこと。
たった35アールの田んぼと、5アールの畑を耕しましたが、すぐに生活苦に陥りました。新規就農支援の施策は皆無に近い時代で、さらに、農地法の壁は厚く高く、農地を持たない者は正規に農地を借りることもできない、俗に言うところのヤミ小作からのスタートでした。
稲の収穫を待ちきれず、茄子にピーマン、トマトにオクラ…、野菜の他、漬物を作り、うどんをこしらえ、売れそうなものは何でも売り歩いて、日銭を得る。その中で比較的「うけ」が良かった保育園向けのパンと、菓子の製造・販売を日銭稼ぎの柱にしての農業修行の生活は、早朝3時起床、お日様が高だかと昇ったころ、日銭のもとを作り終えると、大農家のもとに無報酬で通い、暗くなると帰って来るといったもの。
稼ぎがあれば、少しずつドライバー1本、鍬1本、草刈り機と小さなものから買い揃えて行く中、’98年から、トラクターやコンバインなど大型機械を揃え始め、翌’99年には、田んぼを買い、それを埋め立て、ライスセンターの建設用地を造りました。そして、2000年、その建設費用の融資を得て工事を開始。2001年にライスセンターと精米所が完成したことで、営農基盤が全て整い、今日に至っています。
今、農村は、圧倒的な人手不足…、人はいても、農地に向かい合う農民の数が少なすぎるために、耕作放棄地が急速に増加しています。
国や自治体は、街から農村へと、人の流れを呼び戻そうと、あの手この手、ソフトなうたい文句で、都市へ誘いをかけていますが、スローライフを体感したいと願う人を、いくら連れてきても焼け石に水。余生をおくる人ではなく、農村で生きぬこうとする人を育まなければ、農村の衰退と再生のスピードはバランスしないと思います。
農を生業(なりわい)として生きる人はごく僅かで、定年後、退職金をそこそこつぎ込み、農地を耕して楽しんでいる。米を作っては、自家消費用の保有米を差し引いて、残った米を出荷しては、「あーあ、安いのぉ」と、にやけ顔して嘆いている。農業先進国に言わせれば、不可思議な農業ごっこを、この国では「農業」と言っている。これでは、「農業で食っていくぞ」と拳を掲げる若者は出てこないでしょう。
せいぜい定年帰農組やニートが、都会の喧騒を離れ、農作業で少しだけ汗をかき、「これぞ人らしい生き方」なんて夕陽を背に叫ぶ声が大きくなっていくくらいが関の山。
農業に就いて、リッチになろうと考える若者の一人や二人、そこ、ここの農村にいなくてはならない、と思いませんか?農業は、そんな高望みをしてはならないものですか?産業と呼ぶにふさわしいですか?今こそ、農業こそ、魅惑の就職先であるようにしたいものです。
春から秋はつつましく、かつ、ストイックに一心不乱に働く男達。夏は見事なまでの田園風景、秋には豊作を祝って、盛大な祭り。雪降る冬には、今年も儲かった、そうかお前もか、わっはっはと、肩を叩き合い、酒を食らい、明日はスキーに、旅行にと、来る次のシーズンに向けて英気を養う。そんな日々や1年が繰り返される魅惑の職場。創意と希望に満ちた集いの輪こそ農民パラダイス…。
ただ今、計画進行中なり。
農樹の歩み
農業、農村が廃れゆくのは何故だろう。
農業、そして農村は、貧乏たらしく、働き口も、稼ぎも少ないゆえ、人が出て行き、寄りつかない、帰ってこない。
農を生業として生きる人はごく僅かな現代日本。
大半が定年帰農組で成り立つおかしな世界には、「農業で稼ぐぞ」と拳を掲げる若者は育たない。
次世代が育たなければ万事滅び行くのが常ではないか。
まず『農』は稼げる産業であること。そして誰もが参入でき、努力と工夫次第で儲け、発展させ、
次の世代に襷を繋がんとする思い。
もとは国内の環境や、途上国の農業・農村開発に携わるサラリーマン。
自己資金、農業基盤ともにゼロの非農家出身者だからこそ、
その成功は強いインパクトのモデルケースに成りうると、1995年に脱サラした中津隈俊久。その時、屋号を『農樹』とした。
2011年、東日本大震災。
一時的に農樹の米が救援物資になった時、その輸送に関わったことを機に俊久の長男である一樹は大学を中退。
志し高く農業界に一石を投じるも苦労が続いた父と共に、理想の農樹への道を歩むと決心した。
また、バックパックを背負い海外を旅する中で、飢えに苦しむストリートチルドレンや赤ん坊、
その母親との出会いにより、「飢えの無い世界を目指す」と、一樹は志を新たにする。
2014年、二人は農樹を法人化。一樹が代表取締役に就任。
2015年には台湾への輸出を開始。将来、農樹はそのブランドを世界に広めるに止まらず、国内外で経営体の育成を図る目標を掲げている。
生産技術教育に始まり、経営開始及び開始後のフォロー、販路コーディネートまでを行い、その地の文化と食糧生産の行為がサイクルし、成長と潤いのあるコミュニティを各地に作るというものである。
我々は…、
次世代の憧れとなる農業経営体のモデルケースであり続け、その輪を世界へ、未来へと繋げていきたい。
その先に、飢えのない世界があると信じている。