我が家から自動車走らせ約15分。綾部市、高津八幡宮の「新穀感謝祭」なるものに馳せ参じ候。
まさに読んで字の如し、天の恵みをいただき、生けることへの感謝をしめす、というもの。ご当地の知人から紹介いただき、これぞとばかり、私は米と餅を奉納 させていただいた。おまけに祭事のなかで、拝殿までをもさせていただき、玉串奉納、二礼・二拍手・一礼…と、恐悦至極でございまする。
私の日常は、人から見られるところ、信仰の度合いは非常に浅く見られがちだが、あながちそうではない。我が家には神棚や仏壇も無く、日々そこに手を合わせ ることも無く、寺の檀家でも神社の氏子でもない。しかし、日々、時々刻々、常に心の中で、山や空、海や太陽や月など、何かに向かって、「ありがとう」を呟 いている。職業柄、自然界に生かされているということを実感しながら生きる日々。自ずと「ありがとう」と、感謝の気持ちを抱いているのだ。
これまでは、それで充分だと思っていた。
ところが、学生時代の友人の言葉…。
「クマ、お前は、八幡さんのご加護を受けているらしい、ぞ。」
と、その彼の親しい神官の言葉を伝えてくれた。
「近くの八幡さんに、米を奉納しろ。それから、伊勢神宮もだ。」
とのこと…。
「ほ、…ほうっ。」
そこで、拝殿。玉串奉納、二礼・二拍手・一礼…というわけだ。心の中だけでは無く、物理的に感謝の心を表すことが、これほど清々しいものとは…、大きな発見だ。
強烈な猛暑の中での、今年の農作業は恐怖に近いものがあった。それでもどうにか、収穫を終えることができた喜びは、どう表現すればいいのかわからないが、 こんな表わし方があったのだ。当たり前のことなのに、つい忘れてしまっていたことを反省してしまう。同時に、友人に感謝。そして高津の人々に感謝の心を捧 げたい。
今、私の事務室には、二つのお札が並んでいる。ひとつは無論、この度いただいた高津八幡宮のお札。もうひとつは伊勢神宮のお札である。伊勢神宮へは、高津 八幡宮より、ひと足早くお米を奉納させていただいていたわけなのだが、両者を並べると、一目瞭然、高津八幡宮のお札のほうが、大きさや厚みが勝っている。
「おいおい、天下のお伊勢さん…、」
いやいや、これより先を言うのは止そう。清くなった心のまま…でいたいから。
これからも奉納を続けさせていただきましょ。なんてったって、高津八幡宮の宮司は、女性なのだ。20代独身なのだ。
おっとっと、我が心、清らかなれ!