去る9月1日詩集をいただいた。酷暑の稲刈り突入から5日目。思いがけない贈り物に涙した。
長田 弘
『詩ふたつ』
花を持って、会いにゆく
人生は森のなかの一日
グスタフ・クリムト:画
花を持って、会いにゆく
春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。
どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。
どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。
どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。
歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、
遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうでないということに気づいたのは、
死んでからだった。もう、
どこにもゆかないし、
どんな遠くへもゆくことはない。
そうと知ったときに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんのゆきついた、
いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世から一番遠い場所が、
ほんとうは、この世に
いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。
十歳で死んだ
人生の最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。
病に苦しんで
なくなった母は、
死んで、また元気になった。
死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、わたしは信じる。
ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指すのが、ことばだ。
話すこともなかった人とだって、
語らうことができると知ったのも、
死んでからだった。
春の木々の
枝々が競いあって、
霞む空をつかもうとしている。
春の日、あなたに会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。
人生は森の中の一日
何もないところに、
木を一本、わたしは植えた
それが世界のはじまりだった。
次の日、きみがやってきて、
そばに、もう一本の木を植えた。
木が二本。木は林になった。
三日目、わたしたちは、
さらに、もう一本の木を植えた。
木が三本。林は森になった。
森の木がおおきくなると、
おおきくなったのは、
沈黙だった。
沈黙は、
森を充たす
空気のことばだ。
森のなかでは、
すべてがことばだ。
ことばでないものはなかった。
冷気も、湿気も、
きのこも、泥も、落葉も、
蟻も、ぜんぶ、森のことばだ。
ゴジュウカラも、アトリも。
ツッツツー、トゥイー、
チュッチュビ、チリチリチー、
羽の音、鳥の影も。
森の木は石ゴケをあつめ、
降りしきる雨をあつめ、
夜の濃い闇をあつめて、
森全体を、蜜のような
きれいな沈黙でいっぱいにする。
東の空がわずかに明けると、
大気が静かに透きとおってくる。
朝の光が遠くまでひろがってゆく。
木々の影がしっかりとしてくる。
草のかげの虫。花々のにおい。
蜂のブンブン。石の上のトカゲ。
森には、何一つ、
余分なものがない。
何一つ、むだなものがない。
人生も、おなじだ。
何一つ、余分なものがない。
むだなものがない。
やがて、とある日、
黙って森をでてゆくもののように、
わたしたちは逝くだろう。
わたしたちが死んで、
私たちの森の木が
天を突くほど、大きくなったら、
大きくなった木の下で会おう。
わたしは新鮮な苺をもってゆく。
きみは悲しみをもたずにきてくれ。
そのとき、ふりかえって
人生は森の中の一日のようだったと
言えたら、わたしはうれしい。
あいつの月命日に届いたこの詩集には手紙が添えられ、
「花を持って教会へ会いに来るクマさん親子と、いつも重ねて思いをはせていた詩集です。」
とあった。
こんな贈り物ができる人に私はなりたい。
こんな友人を持ったあいつは誇らしい。
今日はまた花を手に稲刈り終了の報告に行ってきた。
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本日午前、コシヒカリの収穫作業終了。
よくぞ乗り切ったと、褒めあおう。乗り切っただけじゃ無い、収量、品質ともに過去最高の年になったのだから褒めて褒めて褒めちぎってやろう。
「やったぞ、俺たち。」
今夜は祝杯をあげよう。そして明日、一樹は名古屋へ。
これから10月の終わりまでに、6つのプロモーションが控えてる。広めてみせよう、『農樹』ブランド。
それにしてもいささか疲れた。節々きしんで体がしこたま重い。父くまお疲れ様、子くまはただ今ジョギング中なり。ふう、、。
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長らくお待たせしました。
24年産・新米の販売を開始いたします。
9月5日が発送初日となります。農樹HPの通信販売ページもしくはファックスでお申し込み下さい。