東日本大震災の衝撃と、その後の経過をよく理解する間も無く、一過性の「米騒動」なる波が我が家へ押し寄せ、引いていったのがつい先日。睡眠時間を削りつつ、精米と発送、配送を繰り返すこと約10日。この間、我が家には別の衝撃が走った。
二十歳の一人息子が、事務室にいた私のもとにやってきて、
「クマさん、俺…、大学辞めるわ。」
「あー?あ、はん?はー、ほいで、あん?で、なんで?」
聞けば、ここ一年おぼろげに考え続けていたことなのだと言う。大学に入ってから2年間、寸暇を惜しみ、親父のもとで献身的に農業アルバイトをしてくれていた彼は彼なり、痛いほど農業の厳しさを知る反面、その尊さも判ってくれていたようだ。
「卒業してからでも遅くない。俺は30歳で農業を始めた、んぞ。」
と、分別ある親を装いつつ、そう言う私の言葉に説得力は無い。’95年に東証一部上場会社を辞めて農業を始めようとした時、基盤も無く無謀の道に走る私を、泣いてとめる妻の姿が、幼かった彼の記憶にも少しは残っている。この時期に大学を辞め、親父と農業の道を歩まんとする心理に曇りは無く、その論理も通っている。おまけに、言い始めたらちょっとやそっとでは曲げない頑固さは、血統証つきと来ているから、否定はするまい。
1月に続き、再びJR京都伊勢丹で、去る3月2日から8日までの7日間、我が「農樹米」のプロモーションをさせいただくチャンスに恵まれた。前回、大学の試験の都合により、残念無念、参戦を見送った息子が、この度晴れて初陣を飾った。どうやらこれが、我が家で起きた衝撃の大きな要因。
初回に知りあえた方々が、
「また会えたね。美味しくいただいてるよ。」
と、声をかけてくださる。周りで立ち止まる方々に、
「このお米美味しいよ。」
と、薦めてくださる。
「私たちが作ったお米なのです。」
と、語りかければ、息子に目を向け、
「お兄ちゃんが…?へー、頑張ってよ!」、「偉いなー。」
と、言葉が返る。そういう、言葉のキャッチボールを繰り返し、人の温かみ、人の輪の広がりを時々刻々感じる喜びに浸っていく…。
同時に、食べ物や農業、この国のことに目を配り、深い見識を持って、私たちに語りかけてくださる方が、前に立つ…。田舎にいても、「カントリー・ジェントルマン」たらんと、日頃勉強、研鑚する自分たちに、糊のきいたワイシャツ着せて、立ち、話すことの心地よさ…。
「クマさん、ほんとに良い経験だったよ。」
成功裏に終えた伊勢丹からの帰路、その車中二人…、いつにもまして言葉を大事に選びながら、会話を交わし帰って来たような気がしている。それが3月8日深夜。
間も無く、東日本大震災。24日、退学届を提出。電光石火。
本日、大切なあの人眠る比叡山へ報告に参った次第。
私が、サラリーマンを辞めたのはちょうど30歳、阪神淡路大震災の直後。