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農業生産法人 株式会社 農樹

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農樹通信

2004年 秋

台風がやって来た

今年は、農家にとって酷な年だった。春先の異常な暑さと乾燥。梅雨明け前後の少雨などはその序章。各地の水害、あちらこちらに上陸する台風が、8月末、ここにもやってきた。台風16号の突風で、ビニールハウスのビニールが破られた。ビニールハウスはどこかに風を含む場所があると、めっぽう弱い。次々と上陸してくる台風の対策として、いったん稲刈りを中断して、ビニールを全て取り去り、骨組みだけにしたから大丈夫。

次の17号は大陸へとぬけたものの、すぐに18号がやってきた。発生当初は、17号同様、大陸へぬけると思いきや、16号と同じコースをたどるらしい。16号なみの備えをして、台風が過ぎるのを待ったのだが、どうして、どうして、強烈。乾燥場外側に設置してある集塵装置が吹っ飛んだ。籾殻を貯留するビニールハウスが吹っ飛んだ。おまけに、中に貯めてあった籾殻も吹っ飛んだ。尋常な量でない我が家の籾殻が、ブリザードのように舞う。「やばい、明日は菓子折抱えて、町内頭下げて回らないかん…」、と思った矢先、集塵装置が吹っ飛んでいるから、乾燥場の建物内部に烈風が吹き込んでいる。私は飛んで行って盾となり、手探りで板とつっかい棒を探して難を逃れたものの、あー、生きた心地がせんばぁい。台風に慣れっ子、北九州育ちの俺もたまらんばぁい。

翌早朝、いろんなものが吹き飛んでいた。我が家は例のビニールハウスのビニールとその間口、そして集塵装置。被害総額50、60万円といったところだろうか。まだ、これは序の口。世間では建設中の鉄骨の建物が、20mほど飛ばされていたのを始め、倉庫の軒先がふっ飛んでいたりと猛烈な台風の爪あとが残っていた。

稲は大丈夫だろうか?順番に田んぼを見て回ると、見事に南から北に向かって稲が倒れかかっている。稲の倒れ具合を、ボクシングに例えて表現すると、カウント・テンはぶっ倒れて起きあがれない状態。稲穂がべたりと土にくっついて、参りましたと言っているかの様。これだと、えらいこっちゃ、と慌てなくてはいけない。早く稲刈りを進めないと、発芽したり、腐ったりしてしまう。

そこへきて我が家の稲は、カウント・セブンからナインの間で持ちこたえていた。「はー、やれやれ。」そして、「うちの稲は大したもんだ」と感心もしたが、その後の稲刈りはかなり手間取った。

そして、また10月16日と17日、我が物部諏訪神社の秋の大祭が開催された。岸和田のだんじりや博多の山笠のように「動き」や「迫力」あるものとは違い、霧深いここの気候を映し出すかの様に静かで古式ゆかしく、囃しに合わせ大名行列が練り歩くというもの。今年も私は囃し方の太鼓打ち。荒れた年ながら、どうにかこうにか収穫の秋を終えることができた、その感謝の念を奉納をした…、つもりだったのだが、またまたやって来ました23号台風。

近所の犀川は異常増水し、町内所々が浸水したため、数時間ばかり避難所で過ごすはめになった。幸いにも町内は、大きな被害からは免れたものの、私が役員を務めている潅漑用ため池は、激しい漏水に堤体の陥没と、決壊の危機にさらされ、今も警戒中。当分ここを離れられそうにもない。

「申(さる)、酉(とり)荒れて…、と昔から言うてなぁ、」とは老農夫の言葉。来年の干支は、酉…。また荒れるのだろうか、神に祈るのみ。

就農10年、そしてこれから…

’95年、40aの田んぼと5aの畑で農業を開始。しかし、早速やってきた生活苦。

米に野菜、日銭稼ぎに売れるものは何でも売った2年目。漬物やうどん、菓子など作っては売り歩いたが、この年、息子に届いたクリスマスプレゼントは、モスラの下敷き1枚。

’97年、一代奮起して物部町に移った3年目は田んぼが1.7ha。藁をも掴む思いで作ったパンがよく売れた。3人家族の生活に、小さな灯りが見え始め、嬉しくて、嬉しくて、その嬉しさを弾かせたい、息子を喜ばせ、前年の憂さを晴らしたいと始めたクリスマスのトラクターパレード。

農業機械を買い揃え始めた4年目、’98年。小さな物から大きな物まで次々に買っていった。いつの日か、ライスセンターを建てようと、裏の田んぼを買い、造成した5年目、’99年。

作付面積が急増する中、夢のライスセンター建設の計画をすすめ、ようやく融資にこぎつけた7年目、’01年…。そして遂に完成、その秋には稼動、感涙した。

8年目には、作付面積8.5ha、9年目は9.5ha、10年目には10ha超を作付けするようになった。

よそ者新規就農者の荊棘の道も、歩むうちに岩肌の道が、土道、そしてそれが砂利舗装となり、未だ曲がりくねってはいるけれど、ようやくアスファルト舗装の道を歩んでいるかのようになってきた。

次ぎの10年は、真っ直ぐなハイウェイを駆け抜けるようになりたいものだ。