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2005年 春
独りじゃないということ
今年の春作業も終盤、あと4〜5日で田植えが終了できるという時、北海道は旭川から訃報が入った。21年前鳥取で知り会って以来、私を弟のように良くしてくれたそのご夫婦は旭川出身の奥さんの病気に伴い、数年前から故郷に戻っていた。私にとても逢いたがっていたが、こちらの農繁期のことを気遣い、悪化する病状を連絡せず病気と闘っていたと聞き、私はすぐに飛びたい気持ちを抑え、最後の田植えを片付けてから旭川に向かった。家に到着すると、ちょうど初七日の法要が始まるところだった。
鳥取に居た時分、親からの仕送りが無く、講義の合間にヘルメットと長靴を抱えて土木現場で働く貧乏学生、学費滞納の常習犯だった私は、大学2年の時、タダ住まいできる下宿に在りついた。そこは繁華街のど真ん中、飲み助の私は、「下宿代が浮いた分は飲める」とばかり、ある居酒屋に通うようになった。そこは開けっぴろげで気さくな夫婦が経営する小さな店で、ご夫婦の人柄同様に常連さん達がこれまた楽しく誠に居心地良く、夜になるとつい足が向いてしまっていた。しかし、いかに居酒屋でも貧乏学生が毎日通えるはずも無く、私がお代を支払ったのは僅かな期間。そのうち、「今日はツケに…」と言って帰っていたのが、「今日も…」となり、しまいには、「くま、金のことは考えんで毎日来い。」と言っていただいたのを良いことに、私は卒業まで見事に皆勤した。年齢差はさほど無いのに私達は「お父さん」、「お母さん」と、そして「くま」と呼びあい、心通わせあい、ともによく働き・学び、ともに遊び、全てのことに全力で貪欲な青春の日々を謳歌したものだ。
その「お母さん」が逝ってしまった。私が、稲作シーズン中は、2日と家を空けたことがないことや、毎年田植えが終わると1日や2日寝込む事を知っている「お父さん」は、「会いたかった。でも、田んぼは大丈夫か…、」と。
それから48時間、僅かに仮眠をとりながら2人で語り合った…。独りで生きるなんてつまらない。人は所詮弱いな…。しかし、支えあって、前を向き合っていると、ベクトルが生まれる、ドラマが生まれる。そうして生きてきたもの、独り残されたわけじゃないさ…。「お母さん」の葬儀にはタツ、タメ、アカギらが駆けつけたそうだ。私が帰った後には、ノビやユキチが来るという。他の面々もまた都合をつけ、順番に旭川に来ると言ってくれているという。鳥取にあったあの店に代々「居ついて」は巣立って行った私の後輩達だ。49日まで、誰かが家に上がり込み語り合ってくれるだろう。この先のこと…、独りじゃないから、Don’t worry, Be happy.と、思いたい。
北海道から帰ると、6月は大渇水。ひと息つくこともなく、田んぼの給水に駆け回る。7月にようやく雨が降ると、畔草が手加減なしに伸び始めた。