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2008年 夏

熱き夏

7月に入ると、
「お天道さん、あんた怒っとんね?」
と、空を見上げて呟いてしまうくらい、肌を焦がし、痛みを感じさせるような日差しが降り注いだ。そんな暑さがやって来て、息子の高校野球最後の、短くも熱い夏もやって来ては去って行った。
彼は高校1年の秋に、腰椎分離症を抱えてしまって、もがき苦しんで、2年の秋まで満足に練習もできなかった。俺だったら腐って辞めているに違いないだろうに、治療とトレーニングを並行し、辛抱と努力を重ねて、迎える事ができた最後の夏。残すところ、私からしてやれることは、試合の全てに出かけ、背番号15に心の中で賞賛を、そして、チームへ声援を精一杯送ってやることくらいだ。私は、試合ごとに熱く、勝ち上がるごとに熱くさせられた。そして、中年のおっさんを青春真っ只中に引き込んでくれた連中に
「ありがとう」
と、言いたくなる。さらに、
「こいつらに一日でも長く野球をさせてやりたい。」
と、願ったのだが、ベスト4進出をかけた試合で敗れ去った。
欲を言えばきりが無く、残念だが、清清しい。熱くなれることがある幸せと、散っても花を咲かそうと努力を重ねたことの尊さを知り、彼もおそらく清清しく、そして、少しは自分を誇らしく思っているのではなかろうか?今夜は中華料理でねぎらってやろう。
応援団のバスが、選手達より一足早く学校に着き、息子を待っている間に、友人からメールが入った。球場を後にするとき、
「これで青春も終わりですたい」
と、打っておいた私のメールに対する返信だ。
「大丈夫、貴方の生き様そのものが青春です。」
だと…。うっ!

策士

その夜、中華レストランで、オーダーを済ませて料理が運ばれるまでの間に、
「野球を続けさせてくれてありがとう」
と、彼なりの言葉で話し始めるから、ほろっと来るではないか。
「こんなこと言える男に育っていたのか…」
と、今日までのことに思いを馳せる間もなく、
「進学させて欲しいので、お願いします。」
と、息子が切り出してきた。故障をして、トレーニングや治療を重ねながら野球を続けるうち、医療系の大学に関心を寄せていることは知っていた。しかし、それまであまりに漠然としたことでしかこちらに伝えられなかったし、お互いに、進路について語り合うことを避けるような空気もあった。だが、今回は違う。いかんせん話しを切り出すタイミングが良すぎる。この時を見計らって、伝える言葉も用意されていた。つまり私は、ヤツの策略にまんまとはまってしまったわけだ、と思えばおかしくなった。親父を手玉にとる息子を後押しせざるをえんだろう…。

区切り

妻はそれまでに、息子が話す学校の名をいくつか耳にするたびに、本屋で立ち読みなどしていたらしく、ちょいとした医療系大学の通になっていた。息子もこの日を境にして、積極的に進路指導の先生と話し、オープンキャンパスとやらにも出かけ、資料も日に日に増えてきた。さすがの私も資料に目を通し、妻の話しに耳を傾けるようになると、そのうち、
「ここが、あいつの思いに最も近かろう。」
と、いう学校が見えてくる。妻も、
「私もここだと思う。」
けれども、
「払えるん?」
と、言うじゃないか。
「ここを読んどいて…ね。」
と、開かれた学費のページに記された金額を見て、あっ!開いた口が塞がらない。
「…、まあ、オープンキャンパスから帰ってきてからの話しということで…」
と、お茶を濁す。
その日、ヤツは意気揚揚と帰ってきた。
「最高だった。感動した。」
なぞとほざいて、鼻の穴が膨らんでいる。例の大学のオープンキャンパスから帰ってきたのだ。台所で母親相手に雄弁になっている。
「こりゃあやばい、やばい。」
と、私は盃片手、テレビに熱中しているそぶりで通し、適当に酔っ払って早々と寝た。
すると翌日、
「クマさん、話しがあるんですけど…」
と、ヤツが来たー。
「昨日行ってきたらさあ、俺の気持ちにぴったりのとこやったんよ。」
「…。」
「行かせて欲しいです。」
「…。」
「お願いします。」
「全く、お前はひどいヤツやなあ。よりによって俺の誕生日に、目から火噴きそうな学費のとこに行かせてくれってか?」
「まあ、まあ。ねえ、クマさん、まだまだ元気やん。頑張ってくれよ。必ず親孝行するからさ。」
「なにぬかす、俺だって、元気そうに見えるだけで、一つや二つ病気を抱えとるかもしれん。」
「クマさんなら、まだ大丈夫。そんなこと言わずに元気でいてくれよ。」
「なんじゃ、学費出してもらわんといかんから、元気でいてくれってか。」
「まあ、まあ。クマさん、酒はいいと思うよ。でもタバコはやめなよ。」
「俺は意思が弱いけん、ニコレットの力でも借りんとやめられん。」
この時、一瞬ヤツの鼻の穴が膨み、そして会話は続く。
「お願いします。しっかりやりますから、ねえ、クマさん、お願いします。」
「まあな、こんなこと値切っても仕方ねえ。俺だってお前の親父だから、ここを志望するだろうとは思うとった。」
「と、いうことはいいの?」
「ほんとに、お前はひどいやっちゃ、こんな誕生日のプレゼントってありかあ。」
「ははは、ありがとうございます。」
私の誕生日の晩餐には、手作りのにぎり寿司がずらりと並んだ。妻からはリボンが掛けられた酒、息子から、これもリボンが掛けられた包みが…。中身はニコレット。
「まったく、ひどいヤッちゃ、うちの息子は。」
と、言うと、妻が返す。
「クマさん、何年タバコ吸ったん?」
「んー、19歳吸い始めで25年かあ。」
「四半世紀やん、いい区切りやん。」
だとさ…。44歳働き盛り、ええーい、禁煙4週目に突入だあい。

追記

息子は、学校帰り、ドラッグストアに立ち寄って、ニコレットを手にすると、自分が制服姿であることに気付いたそうだ。近くにいる店員さんに、
「構わないですか?」
と、尋ねると、他の店員さんを巻き込んで、その場で相談が始まったという。その結果、
「高校生に販売するわけにはいきません。」
と…。そして、慌てた息子は、携帯電話で妻に、
「大変だ、高校生にはニコレットを売ってくれないらしいから、買っといて!」
と、連絡をとり難無きを得たのだそうだ。
私の44回目の8月5日は、なんだか嬉し、悲し、やっぱし嬉しの日となった。
それから2週間もすると、朝晩涼しく、明け方は寒ささえ感じるようになってきた。ニコチンへの依存度は下がり、自分がアクティブになっていることに気付く。日中は日差し柔らかく、秋の気配。
今年は暑さの中、熱くなりながらも、清清しく、嬉しさに満ち満ちた、いい夏だった。