2008年 春
よっ、日本一!
表彰されたのは私じゃないが、そんなの関係ねぇー。グランプリなのだ。日本一なのだ。その栄冠に輝いたのだ。
表彰されたのは、京都市中京区の竹内康宏さん。数年前からお付き合いしているお米屋さんだ。五ッ星お米マイスターである氏が、「2007年度お米マイスター全国ブレンド技能グランプリ」なるコンクールに、我が家の米を主原料に、ブレンド米を創作して出品。全国3944名のお米マイスターの中で、「いっとーしょう!!」になったのだ、と…、よっ、日本一。
今年度のコンクールは、「寿司飯」用ブレンドがテーマで、出品した作品は、「粒がはっきりして、付着良好、20時間後も硬くなりにくい」との評価を得たのだとか…、いいじゃなぁい。うちのお米の特徴が出てるじゃなぁい…、よっ、日本一。よくぞ使うてくだすった。
この度のことをたとえるなら、氏が個性豊かな選手を束ねた胴上げ監督で、うちのお米はそのチームの4番バッター。さしずめ私が選手の親であり、トレーナーといったところかぁ。ばんざーい。
私達の出会いは大阪。米の産地関係者や生産者、そしてお米マイスターが会する交流会でのことだ。米の業界ではここ京都、ましてや綾部の米など全く無名の存在。そうとはつゆ知らず、のこのこと出かけて行った会場で、なみいる有名産地に群がる人々に、
「産地じゃないよ、お米の作者が誰かだよ。」
と、訴えるも、
「へえー、きょうとお〜」
と、目を合わしてももらえず、鼻にもかけられない有り様だった。私は、
「くっそー、あんたたち、香港でも行ってルイ・ビトンあさって、本物やったぁっ、偽物やったぁって、喜んだり悔しがったりしときゃーよか、ふんっ。」
と、心の中で叫んでいた。
そこへ、
「僕は京都の米をもっと扱いたいねんー。」
と、かの監督はやって来てくれた。私の米を手に取る監督のまわりの人達が、
「綾部って、どの辺り。」
などと、たあいの無いやりとりをする中、
「もっと白う精米せんの?」
と、精米のプロから見ると、これは如何なものかと言わんがばかりの問いに、
「これの方が美味いかと思うて…」
と、私が答えると、間髪入れず、
「僕もそう思う」
と、監督が言い残すと集団がわいわいと立ち去った。
私と一つ違いで、チームのスカウトも兼任する監督のやり方は、有名校の選手を物色するものではない。数日後、監督から、
「そっちへ伺おうと思いますが…。」
と、電話が鳴り、
「今の米の業界、こんなんやけど、僕はこの商売死ぬまで続けようと思うてます。」
との言葉。以来、季節を問わず行き来を繰り返し、なにおか言わんやのお付き合いが今日に至っている。
農家は田舎にしか居ない。当たり前のことだが、ただし、農家は田舎に居るだけではいけない。世の中には、「上」があることを思い知りながら、研鑚することが必要だ。監督と知り合って、
「こんなんもあんねん、くまさん、こんなんだってあんねん。」
様々な米を手に取らせてもらいながら、
「くまさん、全国区に打って出るには…、」
どうしよう、こうしようという米作り談義を、積み木を積んでは崩し、崩しては積むうちにチームは躍進したように思う。これが、俗に言う「コ・ラ・ボ」っちゅうもんじゃろか?
ハンディやコンプレックスも時には力になる。先の交流会で、
「きょうと?あやべっ?」
と、私をあしらうように言ったおっさん達の視線の先には、新潟の看板があった。京都から来ました「農樹」という得体も知れぬ看板では、ブランド好きの人々相手には屁のつっぱりにも成らないということ。
監督もまた京都・祇園で言われた言葉に、20年来コンプレックスを抱えているのだと聞いたことがある。それは、
「大学卒業して、米屋稼業に入ったころな、くまさん。祇園で飲んでてん。その時お姉ちゃんに言われた言葉が忘れられんわ。」
「へぇー?」
「くまさん、その姉ちゃんなんて言うた思う?」
「さぁー?」
「お米屋さんー?ふーん…。なんや皮剥いて売るだけの商売やん…てえ」
「きつーっ」
「…って言うかあ。ずーっと僕、それがコンプレックスやねん。」
と、いう話し。
一樹の陰、一河の流れも他生の縁。同じ木陰に雨宿りし、ともに同じ河の水をくむことは、たとえ知らない者どうしであっても、すべて縁によるもの…、意味のあることだと言うではないか。監督との出会いは言うまでも無いが、あの交流会でのブランド嗜好の人々も、祇園の姉ちゃんも、とても大きな意味を持ってくる…、なんて格好良いことを不肖・中津隈が考えられるのも、なんてったって「ゆうしょう」したからに他ならない。
春が来る。忙しくなる前に、
かんとくーっ、賞状ぶらさげて祇園でいーっぱい飲もかぁ。