2005年 秋
シルクロード
「パキスタン北部で地震」との報道を聞き、20年前のことを思い出した。
シルクロード陸路制覇の旅と称して、列車やバスを乗り継いで、中国の上海から、トルコのイスタンブールへ向かった時のことだ。その半年間の旅の半ばで、中国最西の町・カシュガルから、パキスタンの首都イスラマバード゙までの、思い出深い3週間、季節はちょうど今頃、秋だった。
陸路、中国からパキスタンへ抜けるには、カシュガルからポンコツの乗り合いバスで3泊4日、標高5,000mの国境を越えることになる。国境越えのバスがあるという情報だけを頼りに、遥々カシュガルにやってきたのだが、到着してみるとそのバスはちょうど出発したばかりで、次は1週間後に出るのだというから、辺境の地にふさわしい。急ぐ旅でもなし、安宿をとって、初の陸路国境越えを楽しみに待つことにした。
安宿の客は、パキスタン人が大半を占めていた。その中でも、一番陽気な一団と話すうち、それまで少々退屈な旅を続けていた私の心が躍り始めた。聞けば、彼らは畳1枚ほどの巨大なバッグを手に両国間を行き来している。日用品に工芸品、様々なものをバザールで買い求め、それに詰め、彼らの国の首都・イスラマバードに隣接する町、ラワルピィンディのバザールで売るのだという。そして、利益をもとに、今度はラワルピィンディで買い付けをして、カシュガルで売りさばく、のこぎりびきで儲けているわけだ。貿易とも言えるかと、さらに聞いていると、税関でバッグの中身全てを申告する訳ではないらしい。国境では顔ききや、袖の下を行き交うものの多少でバッグを開かせなかったり、検査官の目線をそらせることが大事だというから、いやはや、奴さんたちは密輸団なのだ。
彼らのすすめで、私はそれまで背負って旅してきた大型リュックの中身を全て捨てた。代わりにバザールで買ったシルクの反物を100m買って、彼らとバスに乗り込み、いよいよ5,000mの国境越えだ。
両国を結ぶ道は、カシミールハイウェイと呼ばれているが、それは名ばかりで、砂漠地帯を抜けてから先は、岩肌剥き出しの山道となる。もちろん、舗装などされてない。それにもかかわらず、かの地のドライバーは、ブレーキペダルに足を置くことなく、まっしぐらだ。車内は、悲鳴にうめき声、激震が続く。40人の乗客に合わせて、屋根の上にまで膨大な荷物を載せたバスが、30分間以上ジャンプを繰り返しながら暴走するのだ。登っては下り、下っては登り、食事休憩でバスから下りても食が進むものは誰もない。激震の連続で内臓も踊っているからだ。
断崖はさらに危険だ。岩肌の路面には大きな凹凸があるので、前後左右に大揺れする。谷側に揺れようものなら車内に絶叫がこだまする。そして、いよいよ運転手が特に危険と判断したら、乗客を下ろして歩かせ、その後ろをバスがついてくる。バスが動けなくなると、我々乗客がそれを押す。その数百メートル前方では、ダイナマイトの爆音が鳴り響く。カシミールハイウェイは建設中である…。
国境では、勝手知る彼らの手引きと、「通関の時、決して荷物を重そうに担がないように!」というアドバイスのおかげで、リュックの中身を検査されることもなく通過、パキスタンに入国した。そして、この国最北部の山里まで下ったところで、先を急ぐ彼らとは、イスラマバードの連絡先を書き込んでくれたメモを貰って別れた。この地域は、見上げれば、万年雪をいだいた数千メートル級の山々に囲まれた村が点在する。美しき山々に囲まれた村をひとつ、またひとつと、ミニバスを乗り継いで訪ね歩くのは楽しみだ。イスラマバードまでは、のんびり行こう。
久しぶりの穏かな旅、氷河で道草をくうなど、気ままに村から村へと下って行く。すると、いくつ目かの村に、すでにイスラマバードにいるはずの彼らがいた。そこから次の村までの距離は30km。その途中で崖崩れが起きて、ミニバスは不通、復旧の見通しは無いのだと言う。歩いて行けないことはないが、ご覧の通りの大荷物を抱えて自分たちだけでは歩いていけないので、ここに人が溜まるのを待っていたのだそうだ。旅は道連れ、世は情け、ミニバスで乗り合わせここまで来た者と、彼らともども、大荷物を一緒に抱えて、歩きに歩いた。崖崩れの現場を越え、次の村までもう少しのところに差し掛かったとき、彼らの中の一人が私の担ぐリュックをとんと叩き、「これぞ誠のシルクロード」と、叫んだぶと、笑い声に湧いた。
その後、シルクの反物はラワルピィンディのバザールで10万円以上の値で売れ、8万円ほどの儲けになった。米ドルで得たこの金は、それまで宿代を含めて1日当たり500円程度の貧乏旅行を続けていた私には、大きな糧となった。イランに入国する前に、闇両替で換金すると、隠すのに困るほどの大きな札束になった。気も大きくなり、首都テヘランでは、この貧乏旅行中、最大の贅沢に興じた。宿はヒルトンホテル、特大ステーキにワインの夕餉だ。
神様
イスラマバードへ向かう道中、出会うパキスタン人の多くから、「お前の宗教は?」と、尋ねられた。当時の私は、宗教や信仰というものを自分なりにとらえたことも無く、別世界のものだったから、その時の気分で、「ブッディスト」か「クリスチャン」と、適当に答えていた。しかし、こちらが好感を持つ相手から、同じように問われると、まじめに答えようとして言葉に詰まる。ある時、言葉に詰まると、問いかけた青年が、
「よし、お前がビルの屋上にいるとする。そこで何物かに不意に突き落とされるその瞬間、お前は何を思う?」
「…、…」
そして、
「助けて!と思うだろう。そう、その先に神がいるんだ。…英語解らず、略…。救いを求めたり、手を差しのべたり、感謝したり、何かを信じる心の先に神が居るんだ…、…英語解らず、略…略…、」
私は、内心、「俺は英語が苦手っちゅうのに、べらべら、まき舌で喋らんでくれんやろか?こっちは言うとること半分も解らんとよ。」と、思いながらも、そのあと気づいたことがある。日ごろ、私は海や山、空を眺めつつ、相談や感謝といった、その時々の語りかけを、知らず知らずにしていたことを…。今でさも宗教・宗派を問われて答えられはしないが、見つめる海、山、空などの、その先に亡き父母がいて、私は日々のことや、将来ことなどを相談したり、救いを求めたり、そして、ありがとうと語りかけている。あの青年が語ってくれた、広い意味での「信仰の心」は、自然ななりで持ち続けているのだ、と。
もうすぐ秋祭り。私は私なりの、心の中の神様に、感謝の気持ちを込めて、今年また太鼓を打つ。