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農樹通信

弊社の記事が綾部新聞に掲載されました

20140412ki

2010年 秋

稲刈り突入

よーい、どん!

おりゃぁ…。ゴーーー…。

暑い!

ほこり立つ稲刈り。

「きゅうーすい!」塩をなめなめ、「きゅうーすい!」

ついさっきの冷水が、今はお湯…。
湯でも何でも、どうでも良いから、「きゅうーすい!」
秋風よ、ああ秋風よ、君恋しや、今何処…。
突入してしまった、平成22年の稲刈り。

わかんない

4条刈りコンバインを操作中、振り向けば、すっかり男の顔をした我が子がいる。今や、3条刈りのコンバインを我が手足の如く操りながら、俺を追いかけてくる「男」となった君は今何を考えているのだろう。

気がつけば、『わかんない』(作詞・作曲井上陽水)を口ずさんでいる。

雨にも風にも負けないでね
暑さや寒さに勝ちつづけて
一日、すこしのパンとミルクだけで
カヤブキ屋根まで届く
電波を受けながら暮らせるかい?

南に貧しい子供が居る
東の病気の大人が泣く
今すぐそこまで行って夢を与え
未来の事ならなにも
心配するなと言えそうかい?

君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ

この曲を知ったのは、沢木耕太郎著「バーボンストリート」。俺が二十歳になった頃だったろうか?

明日もやろかい。4+3の7条刈り。

2010年 夏

愚直

春先から調子がおかしかった左腕は、紛れもなく腱鞘炎。肘の先、手をぎゅっと握り締めるとぐいっと盛り上がる筋肉が痛い。草刈りや肥料の撒布といった重労働を一日通して続けることができない。そして、この蒸し暑さ…。
ここひと月、辛いどころの騒ぎじゃねー。ブログの更新?冗談じゃねー!野良仕事から帰れば、キーボード叩くのも仕事がらみの必要最小限に抑えつつ、明日のために温冷浴と低周波電気治療器にマッサージ、そして仕上げの湿布を施し明日を迎えなければ、半日と持ちこたえてはくれない俺の左腕。
そこへ来て、本来春先に田んぼに撒いているはずだった肥料の山が目の前にある…。雨の連続だったこの春、本来トラクターに取り付けた機械に放り込んで撒くはずだった肥料が大量に残っている。左腕の状況からすれば、その量が量なだけに断念しても稲たちから恨まれることも無かろうが、そこは頑固一徹、プロ魂が許さない。そして、大和魂が許さない。サッカー日本代表の活躍を!と願をかけて、お百度詣りならぬ、数百度担ぎだい。
我が家の肥料の山を崩すべく、意を決したのは、田植え終わらぬ5月末。代表批判高まる中、
「くそたれ日本人め、雑魚の如く踊りよる。批評や批判…、誰かが言い始めたらすぐに同調する雑魚どもめ。日本の代表に選ばれし若者を無為の心で応援できんのかい!」
というふうに愚直な俺の心が叫んだ。
背負っては撒き、撒いては草刈りと、牛馬の如く働き、
「馬鹿だなあ。」
と我が体が愚痴を吐きつつ、また背負ううち、日本代表がいい顔して帰ってきた。その後の番組出演でもいい顔、顔…。
「よかった、よかった。」
と思ううち、我が家の肥料の山もようやく無くなり、腕の痛みも時には忘れられるくらいになっていた。

昨日は、野外作業から暫く遠ざかっていた息子が、次に控える肥料の撒布作業に参加してくれ、
「これはかなりハードな作業だねぇ…、ひと月大変だったねぇ。」
と汗まみれの顔で労いの言葉をかけてくれるので、嬉しく感じつつも、今と先日までの愚直な労働の違いを、
「おう、昨日までこれの4倍背負って撒いとった。」
と言うと絶句していた。
「それって、全部で何キロ?」
「んー、6,000キロ?」
「って、6トン…、まじかよ。」

ちゃんと伝える

先日、園子温(そのしおん)監督作品、『ちゃんと伝える』というタイトルの映画を観た。正確に言えば、その映画のDVDを息子に借りて観た…。
ヤツをちょいとつつけば、打ち出の小槌のごとくお勧め映画が配給されるからありがたい。

ちゃんと伝える
その、『ちゃんと伝える』…。余命わずかな末期がんの父と、これまで十分に語り合うこともなかったが、残る限られた時間を父と向き合おうと決めたサラリーマンの息子の物語。皮肉にも息子までが父の主治医から余命宣告をされながら、それでも父との約束を果たそうとする息子…。身の周りで在りそうで無さそうな、無さそうで在りそうなオリジナルストーリー。

映画の場面、場面で、ついつい涙がこぼれ、20年前に死んだ親父と自分の当時を思い返せば、「思い」をちゃんと伝え合った記憶が乏しすぎることを恨めしく思う。親父が弱弱しくなっていったときの自分が、様々な意味であまりにも未熟で鈍感だった、と。
そして今、自分はもうすぐ二十歳になる息子の父親…。
親父になって父を思えば、世間になびかず、力に巻かれず、愚直にも自由であるを最良とする我が気質は親ゆずりなのだと思う。損得勘定抜きに感情走って馬鹿をみても、たから笑って、その損な話をも自慢げに話すあたりは、「ちゃんと」伝えられてしまったようで、そして、無意識にそれを「ちゃんと」日々実践する自分は、上手に世間を渡る術も学べる若者にとって、迷惑千万な親父かもしれない。
しかし、自分は…、
父親としての値打ちを高めて、息子から高い評価を得ようなどとする考えに及ばない不器用者。壁にぶつかって、強いはずの自分が実は弱くて、だからと言って弱いだけの人間では無いということを、飾らず、そしてみっとも無さも、隠さず高らかに笑って語ろう…。親父というもの、完成されていては窮屈だ。発展途上の男くらいでちょうどいい…、わっはっは。
誰に似たのか?無骨な平成男児と伝えあう、切磋琢磨の日々是好日、万歳。

寝太郎さま

むかし、長門の国は厚狭の里に、毎日寝てばかりいて村人から「寝太郎」と呼ばれる庄屋の息子がおりました。三年と三月を寝て暮らしたある日、むっくりと起き上がり父親に船をつくらせ、新しいわらじをいっぱい積むと佐渡島へ船出しました。佐渡島へ着くと金山で働く人たちの古いわらじと新しいわらじを交換し、船いっぱいに積むとさっさと帰ってゆきました。村にもどると泥んこですり切れたわらじを村人たちと桶で洗いました。すると桶の底に金の砂が光っているではありませんか。手に入れた砂金を元に堰をつくり干害用水路を引き、荒地の原野を水田に変えたのでした。
のちに村人から「寝太郎さま」と親しまれ、長生きしたそうな。
今でも農業の神様として神社に祭られております。(日本昔話『三年寝太郎』)

三年寝太郎/焼酎

山口県を代表する民話に由来して名付けられた純米焼酎、その名も『三年寝太郎』。知人からことあるごとに贈っていただくこいつは、ぐいぐいやりたい飲兵衛にはうってつけの、味わい深く、香り、呑み口とも爽やかな一本。

グラス片手に何度読んでもいいお話。氷をグラスにざっくり盛って一杯。こちとら、灼熱のお日様のもと、たった3日でさえも寝ているわけにいかないこの身に、うまい焼酎をせめてまたもう一杯、もう一杯と、また『お話』を読み返す。

「いつも必ず、こいつを贈ってくれるのには意味があるのか…?俺も何かを成し遂げたいね…。」

今朝方、息子が旅に出た。大学の友人と3人旅。リュックひとつ抱えて、風の吹くまま、気の向くままチャリンコを漕ぐらしい。
決まっていることと言えば、チャリンコはチャリンコでも変則ギアー付は反則、3人ともママチャリでなくてはならない。また目的地は無く、とりあえず「琵琶湖一周でもする」といったノリで、どうも決め事をしないことが決め事のようだ。こちとら帰りはいつともわからない。

ママチャリツアーTシャツ

この日のためにあつらえたお揃いのTシャツに袖を通し、集合場所へと朝6時半、喜々として出かけるファンキーボーイに、
「さすが俺の息子!」
と心の中で万歳しながら、笑顔で送り出した。
「どうか、このへんてこなTシャツを着た若者達に、冷たいお茶の一杯と、暖かい声援と、もひとつ願わくば、黄色い声援なんぞいただけないもんかのー。」

ちょうど1年前、ヤツは、
「旅に出る。」
と突然言い始めるや、4、5日どこにいるともわからないまま姿を消した。この間、言葉の無いメールに写真だけが添付され送られても、どこにいるともわかりそうな写真は送ってこない。帰って来て、どこへ行っていたのか聞けば、なるほど、神奈川、東京、茨城あたりへ行っていたらしい。ヤツが5歳までを過ごした横浜やつくばを巡ってきたわけだ。自動車免許取りたての18歳が一人で、一般道を走って東京を駆け抜けるなんぞ…。
「血は受け継がれる…もんやね」
と思ったものだ。

昨日は草刈りの合間、ぜーぜー息を切らしている私に、息子が尋ねてきた。
「クマさんがシルクロードの陸路旅、行ったのいくつの時やったっけ?」
「おーっ、暑い、あん?ああ、にじゅういっさい、おー、しんどい…。」
「鉄道とバス乗り継いだんやったよね…。半年くらい行ったんやったっけ?」
「おー、そうそう。」
ヤツは来年21歳。もしかしたら…。何したかて、俺は驚かんもん、ね。

水風呂

こうも暑さが続くと、日中熱せられた体が夜のうちに冷めきることなく、翌朝を迎えているような気がしてならない。エアコンの風を浴びても、水を浴びても体の芯がまだ温いような感覚。空冷も水冷も効かず、蓄熱される一方のよう…、に感じられる。

夕食後、エアコンと扇風機の風に当たり、足裏マッサージ器にふくらはぎを揉ませながらテレビを観てると、意識がどこか遠い世界へととんでしまう。いつもよくある事とは言え、ことのほか心地よく行ってしまっていたらしく、一昨日の夜、窓の外の物音で「ビクン」と、こちらの世界へ舞い戻ったときには涎を垂れていたが、その足音で息子が旅から帰還したと察知。顔を拭い、起きなおして、
「お帰り!」
と寝ぼけながらも元気よく迎える。
そこには、黒く、いや赤く?赤黒く、そして目まで赤くなった息子が立っていた…。その表情から、舞い戻るために相当の精力を使い果たしたことが伺え、夜食をかき込むと言葉少なに部屋へ向かう息子へ、
「明日はゆっくりせえ…。」
と休みの合図。

しかし、ここからが凄い。毎早朝恒例の草刈り作業に復帰するや、ママチャリ琵琶湖一周の疲れなぞどこ吹く風よとばかり、先へ先へと調子よく進んで行くではないか…。こちらは、日に日に衰え、草刈りのゴールはまだか?猛暑はおさまらぬか?どうにかならんか、この暑さ、と嘆き節ばかりを唱えつつ、午前9時には全身びしょ濡れで、ぜーぜーしてると、
「だらしないぞ!」
と息子が言い放ち、悪戯っぽくニヤついている。
「はい、すんまっしぇん。」
とボケながら笑おうとしても、口を開けるが精一杯で、その後の笑い声が追いつかない。

あー、もう情けない。俺が悪いのか?お天道さんが悪いのか?どうでも良いから、涼しさと若さを返して欲しい。息子のような、筋金入りの耐熱人間にしておくれとまでは言わないが、このままでは居られない。このまま稲刈りに突入してしまうなんて考えたくも無い…。
体にいいとか悪いとか、もうどうでも良くなったので、外から帰ればそのたびに水風呂に浸かることにした。どうでも構わん、体の芯から冷え切るまで、水冷放熱だい。

熱戦

昨日から満を持して、綾部市議会選挙の街宣車が走り始めた。投票日の8月29日まで、1週間、騒々しい日が続く。
平年は、高校球児たちが繰り広げる熱戦の数々を清々しく見届けて、いよいよ収穫の秋を前に、涼風そよぎ始めることよろしく、夏から秋、気持ちのスイッチを切り替え、来る大仕事の準備に着々と取り掛かるところ…。
しかし、今年は4年に1度の当たり年、おまけに記録的な猛暑。ここへ来て、甲子園の躍動や感動とは大きく異なる「あつさ」のおかげ、心穏やかな秋へと向うことができない。
猛暑、酷暑のおかげで、田んぼが乾くこと乾くこと。朝5時には田んぼに水を仕掛けてまわり、いったん家に戻り、朝飯を食らって一息つく間も無く、7時までには田んぼに出る。そう、午前10時までが野良仕事のゴールデンタイム。
先日まで続いた草刈りキャラバンもゴールを向え、今では田の草取りキャラバン隊。田んぼに入り、稲より背が高くなった草めがけて稲を掻き分け前進。鎌のあしらいよろしく、なるべく低いところからスパッと刈ってまた前進。
朝露に濡れる稲を掻き分け下半身はびしょ濡れ。汗で上半身がびしょ濡れになる午前8半には、選挙街宣車が行き交い始め、誠に騒々しい。
「ご苦労様です。お暑い中、農作業ご苦労様です。」
どうもこちらに向ってマイクでメッセージを送っているよう…。汗みどろの顔を上げて、愛想振りまくお調子者にもなれないし、
「はーい、苦労してまーす。暑さでゲロ吐きそーでーす。」
と大声を張り上げる。誰にも聞こえはしないたまの大声…、それもまた良し。

小さな峠の向こう側へ、早朝から水を入れている田んぼの様子を見に行こうと、こちらが峠に差しかかる前から、向こうのふもとから、
「ありがとうございます。お暑い中、暖かいご声援、誠にありがとうございます。」
と聞こえてくる。こちらが上りに差し掛かる頃、街宣車が下ってきて、車中の皆さん満面の笑顔で精一杯、車から身を乗り出しながら手を振り、先の文句をリピートしながら去っていく。こちらは、そのまま峠を上り、下り、そして下りきっても、誰とも会わない、誰もいやしない。
「おいおい、奴さんたち…、鹿かイノシシにも、ありがとうって手を振っとんたん?」

したたる汗を拭いもせず、暑さで口も閉まらぬままの田んぼの回りをそろそろ巡り、
「水は入ったか?ああ、まだか。仕方ない…、ふうー。」
と、田んぼに向ってひと息ついていると、また街宣車。200メートル、いや300メートル向こうから、
「ご苦労様です。猛暑の中、農作業ご苦労様です。」
とこれまた同じ文句でやってくる。ぐるり見渡せば、俺一人…。
「せからしかー!ズボン下ろしとろーが、わからんとかー!立小便にご苦労さんって、馬鹿にしとーとかー!」
ピンポイント攻撃したつもりやろが、間違いなく、俺の一票はよそに行く。

2010年 初夏

雨のち曇り

農繁期真っ只中、5月半ば過ぎ、17日を境に、心の中は、雨のち曇り。この間、書き物をする気が全く失せていた。
17日未明、前ぶれも無く突然、政治さんが逝ってしまった。前日の夜まで、家族と談笑しながら夕食をともにしたそうなのに、翌朝、体は冷たくなっていたと…。
政治さんの息子が、私と同い年の直輝ちゃん。町内で一番仲良く、再々一献酌み交わす間柄。その親父の政治さんもまた、私が親友と呼ぶには語弊もあるが、町内で最も愛すべき年輩者だった。
政治さんの日課は、ウオーキング。すたすたと歩くこと1時間以上、時には日に2回。そのコースたるや相当たる距離で、今から思えば、方々にある私の田んぼの見回りをしてくれていたかにも思える、ウオーキングコース。野外作業に勤しむ春から秋にかけて、私が、どこの田んぼで仕事をしていようと、出会わない日は、まず、無かった。
トラクターに乗っていると、道の上から、「おーい」と声をかけ、手を振り、その仕草でエールをおくってくれていることが良くわかる。草刈りに疲れ、あぜ道でへたばっていると、「きばっとるなぁ」と、寄り道をしてくれては、会話が弾む。
片っ端から資格を取得して、会社経営をし、引退後は悠々自適の76歳。努力で人生を切り開いて生き抜いたという自負を感じさせる政治さんとの会話は、いつも小気味良いものだった。ゼロから経営を成り立たせることを経験したからこそ、同じくゼロから始めて、今に至る私の、経営者なりに持つ辛さや悩みを、分析して、言い当て、そして最後には「きばらんなんっ、のぉ、くまさん」と、励ましてもらっていたものだ。
また、大好きな釣りから帰るや、ひょっこりと現れては、「おーい、釣れたでよ。食えや。」と、いつもその釣果をおすそ分けしてくれる優しいおっちゃん。妻も息子も大好きで、いつまでも元気でいて欲しい人だと、常々話していたのになあ…。
雨降る葬儀の翌日から、心に鞭打ち、田植え完了に向けて、最後の追い込みに入るも、トラクターを動かし、また、田植機に乗っていても、その先に、凛としてスタスタ歩く政治さんの姿があるように思えてならず、思わず目が曇る。どの田んぼに入っていても、これまで、そこから政治さんの姿を見かけて、「おーい」と、声かけ合わなかった田んぼは1枚も無い。
「おーい、きばっとるな、息子も向こうできばっとったでよ!」と、手を振っていそうで…、「今年も5月のうちに、田植えは終われそうか?」と、聞こえてきそうで…。
この先もずっと、私がどの田んぼにいるときも、思い出すに違いない。
背筋を伸ばしてスタスタ、スタスタ。十分努力した人生だと言わんばかりに、スタスタ、スタスタ。真っ直ぐに生きたぞ、と言わんばかりに、スタスタ、スタスタ歩く、あの姿。

5月30日、本年、田植え終了。
「おーい、まさじさーん。今年も5月のうちに、田植え終わったぞー。」と、叫べば、「よう頑張ったやぁ、でものぉ、くまさん、あそこの田んぼのぉ、水が干上がって、のぉなっとったでよぉ。」と、聞こえるような気がする。

曇りのち、晴れ間1

昨日の早朝、いつもより遅れて、私が係りをしている水利組合の揚水ポンプのスイッチを入れに行くと、その近くに住んでいるマサオさんがうろうろしていた。いつもなら遅くとも6時までにそこへ行くのだが、この日に限って、この春、稲苗を販売した先々の家のポストへ、請求書を投げ込みながら向かったので、7時頃そこへ到着。つまり、どうも、マサオさんは早朝1時間近く、私の到着を待っていたことになる。
常日頃、大変お世話になっているマサオさんは、我が息子評するところ、「癒される爺ちゃん」、なのだそうだ。さもあらん…。飾り気もへったくれも、全くあったもんじゃない。5月というのに肌寒かった、ついこの間まで、ドテラを羽織って、キャップをかぶり、足元は長靴といういでたちで、畑や近所を徘徊、こてこての地の言葉でまくし立てる強気のおっさん、79歳。過の政治さんとも馬があっていたようで、これまた私と我が家族の、愛すべきおっさんが、マサオさん。
この朝は、私の姿を見つけるなり、
「おー、お前を待っとんたんじゃー。」
だと…。なぜかと聞けば、
「トラクターの使いようが、どうも、わからんのじゃ。」
と、いうではないか。近年、めっきり足腰が弱ったせいでリタイアしたとは言え、数年前までバリバリの専業農家だったおっさんが、農家のシンボルの使いようがわからん、とは…。思わず、
「ボケてきたわけじゃ無かろうなぁ」
と、つぶやいてしまいつつ、
「ここと、ここをこうして…。ここに気をつけたら、いいよ…。」
と、デモンストレーションしてみせると、
「おお、おお、そうじゃ、そうじゃのぉ、思い出したでよぉ。」

そして、
「くまさん、待っとれよ。お前がおるうちに、わし、運転するでのぉー、見とってくれーや。」
と、帰ろうとする私を制止する。バリバリー、と、ディーゼル音を響かせトラクターが動き始めると、喜々たる笑みを浮かべ、そのうち、久しぶりの感覚に陶酔の表情になるおっさん。しばらくして、見守っている私の姿が再度目に入るや、
「おお、お前、帰って良いでよぉ。おっきにー。」
です、と…。ああー、マサオさん。そして、もうひと言。
「ボケて来よるわけや無いでのぉー。物忘れがひどーなって来ただけやでよぉー。」
です、と…。ああー、マサオさん。
家に帰ると、午前8時。通学前の息子にことの顛末を話せば、
「それぞ、マサオさんって感じで、いいよねぇ。わはは、ひぃー。」
と、そっくり返って大笑い。
あーあ、愛すべき我が友よ。
To be continued

曇りのち、晴れ間2

マサオさんの一件で大笑いしていると、息子が窓の外を差して、
「あっ、ツギオさん。ツギオさんがバイクで来た。」
と、言うので、外へ出て行くと、バイクにまたがるツギオさんが、我が家の奥の作業場の方へと進んで行く。
「ツギオさーん、どうしたん?」と、呼び止めれば、いつも飄々とした83歳か84歳になるそのおっちゃん、
「あー、やっと出会えたでよー。」
と、金を紙に添えて差し出す。金に添えられた紙は、この朝方6時30分、私がポストに投げ込んだ稲苗代金の請求書。投函から何と、1時間半後に支払いに来てくれるとは、ツギオさんの性分。このおっさん、何事も先回りして、後回しにすることを嫌う性質で、常に先のことが気になるようだ。

毎年のことながら、ツギオさんは、4月に必ず3度、種まき作業の現場にやってくる。
「種まきしよってんかい?ちょこっと覗かせてくれよぉ。」
と、言うや否や、場内を徘徊し始める。
「おー、上手に播けるもんじゃなあ。」「苗は連休にできるかい?」「娘たちが帰ってきて植えてくれるんじゃ。」「5月の3日に取りに来たらできとるかい?」
毎年同じ事を呟き、うろうろするから、次に何を言うのか分かっている。次は、自分は年寄りだから、もう田んぼは作りたくもないけれど、娘たちが、連休には必ず田植えに帰るから、作れ、作れというもんで、また今年も作るのだ、と。そして、ほら来た、
「ここの米はうまい、うまいて言うてくれるもんじゃでな。」
と、本来米作りが大好きなおっさんなのだ。我が息子も、今年は、出入りするおっさんたちの、人となりが分かってきたとあって、このツギオさんがやって来ると、ニタニタしている。

「苗代払いに来たんじゃ。振り込みはじゃまくさいでな、金受け取ってくれ。釣りはよいでなぁ。」
と、言うので金額確かめると、千円のお釣り。
「ツギさん、あかん、あかん、お釣り受け取ってくれ。ほら千円。」
と、言っても聞く耳持たず。
「よいでぇ、釣りはいらん。お前がそれで一杯やっとくれ。頼むで、釣りは返さんといてくれ。それより、良い苗作ってもらって、こっちは喜んどんじゃ。頼むでよー、わしが生けっとる間、苗作っておくれよぉ。」
と、ほらね、おっさん、米作りが好きなのだ。
ツギオさんが置いていった千円を「お前にやる」と、息子に手渡しながら、その様子を話せば、また、
「わははー、ひーっ」
と、笑いが起きる。
「くまさん、ツギオさんね、何回か来てたよ。バイクが入っていったなあって見てたら、裏でぐるぐる回って出て行って…。くまさんが帰るまでに3回くらい、入って来ては、ぐるぐるして出て行った。」
「わははー、ひーっ」
「そうか、それでツギさん、さっき、やっと出会えたでよーって言ってたわけね。」
「わははー、ひーっ」
と、二人で大笑い。

To be continued

曇りのち、晴れ間3

笑いが落ち着くと、息子が、
「何ともいいよねぇ…、おっちゃんたち…。」
「…、…、くまさん、政治さんは、やっぱ、ミスチルの歌だ。」
と、言うのでピンと来た。
「花の匂い…か?」
「うん。」

私が貧乏学生時代、お世話になり、その後も深い親交があった方が、一昨年亡くなった時、しょぼくれ落ち込む親父に、これを聴けよと、息子が聴かせてくれた一曲が、ミスター・チルドレンの「花の匂い」。
彼が、今、この瞬間に何を言わんとしているのか、おおよそ理解できたので、今一度歌詞を確認してみた。

誰の命もまた誰かを輝かすための光
どんな悲劇に埋もれた場所にでも
しあわせの種は必ず植わってる
こぼれ落ちた涙が ちょうどいっぱいになったら
その種に水をまこう

曇った気持ちに晴れ間が差し込んできたので、早速、直輝ちゃんに、「政治さんのウォーキングコースを一緒に歩こう」と、メールを打った。
本日、16:30ウォーキング開始。

2010年 春

農家の春

稲作農家に春が来た。野良仕事の手始めは、苗を育てるビニールハウスの中の、清掃と、整地。バックホーで草を削り、土をならす。ポンコツ機械のアームからオイル漏れを発見し、またもや修理代のことが頭を過ぎる。

育苗ハウスの整地

大学へ自宅から通学する息子が、昨年から良きパートナー。休憩時間の会話は、さわやかで濃い内容になってきた。

育苗ハウスの整地

向こうに豆粒のように固まっているのは、平均年齢80歳の三人組、近所のおっさんたちが、缶コーヒーを手土産に、若手の働きぶりを見学しながら、日向ぼっこ。

育苗ハウスの整地

仕事の邪魔にならぬよう、ハウスの隅っこで約3時間、たっぷり語らって、こちらに「はよ、しもてぇ」と、手を振り去っていく。無理せず、もうそろそろ、仕事終わりにしなよっ、てさ。その存在がのどかなおっさん。
次は、ハウスの外の、露地育苗の床作りに取り掛かろう。

雨降りに、映画

稲作シーズンが本格化しようとしているのに、雨ばかり。屋外作業は殆んど手付かずだが、種まきに向け、作業場のセッティングをこまごまとやっている。
ジェットヒーターを焚きながら、屋内作業をしながらの、息子との会話は充実していて、このうえなく楽しい。一昨日は、映画の話に花が咲いた。当年、19歳の息子の映画好きは、紛れも無く、この親父の影響を受けてのこと。
「くまさん…、」
息子から、そう呼ばれて19年。妻から、そう呼ばれて20年になる私に、
「DVD…、どうやった?」
と、彼が訊ねてきた。働き者の彼は、米作りの親父のもと、そしてパン作りの母のもとでバイトをしつつ、その一部を趣味にまわして、かつ、感動のお裾分けをもしてくれる孝行者。
4日前、彼から借りたのは、「ストレイト・ストーリー」という映画。実話に基づくその映画の主人公は、その名も、アルヴィン・ストレイトという73歳の老人。その彼が、杖無くして歩けなくなった矢先、十年前、喧嘩別れをして以来、音信不通になってしまっていた彼の兄が、倒れたという知らせが入ったあたりが、映画の序盤。
そこで、車の免許もなく、足腰が不自由になって、バスにも乗れない頑固な主人公の彼、「ストレイト」が、起こした「ストーリー」が、小型のトラクターで、兄のもとへ向かうというものだった。
時速8キロでしか走れない、小型のトラクターで560キロを野宿をしながら走破する、6週間の旅。

ストレイト・ストーリー/straight story

映画の冒頭、アイオワ州の満天の星空と、農村風景が映っていることに始まり、主人公・ストレイトが、兄のもとへ、自分の力だけで訪ねたい…と思う、「ストレイト」さ、頑固さと、道中の人々のかかわり合いを織り交ぜて、「ストーリー」が進む…。
私は、息子へ、「良かったよ。」と答え、ラストシーンと、冒頭の星空の映像のつながりを私ながら感じるところあり、思い出しつつ彼との会話を進めていると、もう、あっぷあっぷ。へその奥から、胃や心臓あたりへ染み渡って来て、涙流すか、叫ぶしかない感覚を隠して、あっち向いて、こっち向いて、上を向く。
「昔観た、高倉健さんの、幸せの黄色いハンカチを思い出したぁ…。」
何かで目がしみた素振りをしながら、
「それって、いいんか?」と、聞く息子に、
「いいにきまっとろうが、健さんぞ、健さん、俺の母校の先輩ぞ。観てみいーや。」
と、あっち向いて、上を見上げる。
It is the straight story.

雨降りに、比叡山

天候悪し、今日は26日。学生時代、お世話になったあの人の月命日。彼の眠る比叡山へ、おむすびぶら下げ、迫るこの稲作シーズンの決意表明に行って来た。山頂は、吹雪。ダウンジャケットを着てきて正解。猫背になりつつ、「真っ直ぐ過ぎた人だった」と、あの人のことを思う。その真っ直ぐさが、命を縮めてしまったのだと。
そして、お堂を出るとき、母校の先生が、話していたことを思い出した。

比叡山・京都

「私は、何事も真っ直ぐでなければ気に食わない。松の盆栽の枝振りが良いと言われるのを観ても、良いと思ったことが無い。松でも、山に真っ直ぐに立ってるやつがいい。」
土地柄だとは思うが、格好良さとは、自分を曲げずに貫くことだと信じて育った私。
しかし、世の中見渡して、真っ直ぐ過ぎると、得することが極めて少ないことを、遅ればせながら、ようやくわかってきたが、もう遅い。
後悔する理由(わけ)も見当たらなず、このままで、愚直な馬鹿さ加減のままの自分が、心地良い。
It is my straight story.

比叡山・滋賀

帰りの車中、息子が録音していたボブディランの「風に吹かれて」と、福山雅治の「道標」を、独り、差し替え、繰り返し聴き…。「道標」は、俺より少し格好良い福山君と合唱しながら帰ってきた。