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2009年 秋

遺産

9月末、北海道へ行ってきた。「大将」の遺品整理のため、友人から借りたハイエースとともにフェリーで21時間、旭川に4日間、帰路と合わせて1週間の旅だ。

ちょうど1年前のこの時期にも、私は同じ行程を辿っている。その時は、大将の49日の法要に合わせて旭川に赴き、広島に住む、大将の義理の娘さんたちとともに、彼の骨を持ち帰り、比叡山・延暦寺へ葬った。そして今回、主をなくして空き家となってしまった彼の家を、次の冬が訪れるまでに解体すべく、中の遺品を整理してしまうのが目的だった。
「大将」との出会いは、25年前。私が鳥取の学生時分、足掛け3年、毎日欠かさず通った居酒屋、その名も「蝦夷」の「大将」が、彼である。

当時、私の親父は病に伏し、入退院の繰り返し。仕送りを受けるわけにもいかず、卒業していく先輩から、5万円で譲り受けたポンコツ車に、長靴とヘルメットを常備して、大学と土木現場、そして下宿を行き来する日々。
「どうにかなるやろ」
と、軽く思っていたのが運のつき。稼いだ金を学費に向ける優先順位は低く、どうしても滞納してしまう。学生係の掲示板に張り出される学費未納者の中に、私の名前が含まれなかったことは、一度も無い。払い込んだ者から消されていく名前の中で、最後に残るのが、いつも中津隈俊久だ。しかし、挫けず、腐らずいれば、世の中まんざらでもないもので、鳥取の繁華街のど真ん中、下宿代無料、布団屋の2階の部屋を紹介され、私は飛びついた。
「あの店に近い。」
大将の店には、それまで何度か先輩に連れられて行ったが、店を出てから、
「先輩、ごちそうさん」
と、千円札を渡すのが関の山だった。

いざ店の近所に住んでみると、ネオンに惹かれ、あの店に惹かれ、つい足が向いてしまうと、支払いの心配を打ち消すかのごとく足早になる。「居酒屋 蝦夷」で金を払ったことが無いわけではない。だが、支払いをした記憶が殆んど無い。近所に住み、一人で行くようになって、数回は払ったかな。そのうち、奥さんが、
「くまさん、今日はツケだよ。いいねえ、おとうさん。」
と、大将に振り、夫婦でにやりと笑っている。次回も、次回もまたその繰り返しで、その日も、私が帰りにもぞもぞしていると、
「クマ、払いはどうでもいいから、お前、毎日、蝦夷に来い。」
と、言われたのを良いことに、卒業まで皆勤した。旭川出身、姉さん女房の奥さんと、私と十も年の差が無い大将から、弟のように可愛がってもらったものだ。この後も、学費滞納の張り出しは続いたが、当時の私にとって、酒のおかわり自由の夕食が保障されている豊かさは、今でも表しようもない。

勉強熱心で、何事にもストイックに臨む大将に、小柄ながら、道産子の気質であろう、大らかで度胸者のおかみさん。そして、二人の共通項は、その茶目っ気、といったあたりが、常連さんを引きつけ、離さなかったのではなかろうか。私の青春時代真っ只中、最も濃い時を過ごした人。

10年前、奥さんの病状の悪化から、鳥取の店をたたんで、夫婦は旭川へ。町外れの自宅を改造して、小さな料理屋を営んだ。しかし病状は好転せず、4年前に奥さんが逝き、昨年は大将までもが逝ってしまった。

生前、
「俺が死んだら、クマ、その時はよろしく頼む。」
と、彼が言った時、茶化したりしなければよかったのに、彼の遺志を今更探ろうとすると、胸が強く痛む。それを一人で想像するには、心が破れてしまいそうになる。しかし、心が裂けずに保たれたのは、1年前に会うことができた、旭川のあの人々のおかげだった。最期に大将が、親交を深めた人々、その誰もが、今でも暖かく彼を想ってくれるからこそ私は救われる。

遺品整理に、人々が駆けつけてくれた。足掛け4日の作業の大半は、食器の類の持ち出しだった。小さな店だったにもかかわらず、心づくしの料理を盛るために、方々から集めた器の量が尋常でない。家の解体にあわせて、スクラップにするには忍びなく、運び出して、日常使いあうことができたら最善と、ほぼ家を空にできたとき、
「お見事、お見事。」
と、大将が笑ったような気がした。

彼の遺品を詰め込んだハイエースで、小樽港へ向かう。道中、過の人々から、
「ご苦労様。気をつけて。また会いましょう。この次は家族と一緒においでよ。」

と、電話やメールが入る。誰一人血のつながりはないのに、大将を介したこの縁は、いつまでも、間違いなく続く、彼が残してくれた私への遺産だ。

救世主

北海道から家に帰り着くと、息子がまだ起きていた。向こうでの出来事と、北の人々からの言葉を、ひと通り伝え終えると、
「行こうクマさん、今度は一緒に北海道に行こう。」
と、息子が言う。
この春から大学生。自宅から自動車で通学する息子は、長期休暇や休日の9割方、私の元で農作業のアルバイトをしている。その彼が、1年前から気にしてくれていたのが、今回の私の「使命」だった。苗作りの頃は、
「田植えが終わったら北海道行くんか?」
田植えが終われば、
「北海道は?」
と、尋ねる。
「状況が許さんから、こりゃー、稲刈りの合間に、時間作って行くしかないなあ。」
と、答えれば、秋、ここぞとばかりの活躍を見せ、休憩抜きでコンバインを動かす。籾摺りとなったら、1日中でも米を積み上げる。すると、作付けの85%を占めるコシヒカリの稲刈りが、9月を1週間残して終わってしまった。まさにタフで心優しき救世主。
春から、トラクターや田植え機に乗せても、自動車免許を取りたての少年には、大型で特殊なものだから、怖気づいてもおかしくないはずなのに、
「よし、やってみるよ。」
と、乗り込んで、基本をはずさず、見る見る上達する。苗作りや草刈りといった、地を這い、息が切れる苦しい作業も、
「何ともない、何のこれしき!」
と、ものともしない。思えば、日に日に頼もしくなる息子を、喜ばしく思えてならなかった今シーズン、これら、踏ん張りの一端に、親父を北海道へ向かわせようとの、心が込められていたのだと思えてならない。
「よし、これで行ける。9月23日に北海道に行く。」
と、私が言い放った時、彼が見せた、達成感にも似た表情がその理由だ。
ハートがある、人の心の機微がわかる、いつの間にかそんな男に、息子が育っていた喜びを抱えて、昨日最後の稲刈りを終えた。

明日10月21日は、「大将」の家の解体だ。近々また、おむすび作って、比叡山へ報告に行って来よう。救世主の運転で、ね。農樹通信 比叡山延暦寺