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農樹通信

2009年 秋

遺産

9月末、北海道へ行ってきた。「大将」の遺品整理のため、友人から借りたハイエースとともにフェリーで21時間、旭川に4日間、帰路と合わせて1週間の旅だ。

ちょうど1年前のこの時期にも、私は同じ行程を辿っている。その時は、大将の49日の法要に合わせて旭川に赴き、広島に住む、大将の義理の娘さんたちとともに、彼の骨を持ち帰り、比叡山・延暦寺へ葬った。そして今回、主をなくして空き家となってしまった彼の家を、次の冬が訪れるまでに解体すべく、中の遺品を整理してしまうのが目的だった。
「大将」との出会いは、25年前。私が鳥取の学生時分、足掛け3年、毎日欠かさず通った居酒屋、その名も「蝦夷」の「大将」が、彼である。

当時、私の親父は病に伏し、入退院の繰り返し。仕送りを受けるわけにもいかず、卒業していく先輩から、5万円で譲り受けたポンコツ車に、長靴とヘルメットを常備して、大学と土木現場、そして下宿を行き来する日々。
「どうにかなるやろ」
と、軽く思っていたのが運のつき。稼いだ金を学費に向ける優先順位は低く、どうしても滞納してしまう。学生係の掲示板に張り出される学費未納者の中に、私の名前が含まれなかったことは、一度も無い。払い込んだ者から消されていく名前の中で、最後に残るのが、いつも中津隈俊久だ。しかし、挫けず、腐らずいれば、世の中まんざらでもないもので、鳥取の繁華街のど真ん中、下宿代無料、布団屋の2階の部屋を紹介され、私は飛びついた。
「あの店に近い。」
大将の店には、それまで何度か先輩に連れられて行ったが、店を出てから、
「先輩、ごちそうさん」
と、千円札を渡すのが関の山だった。

いざ店の近所に住んでみると、ネオンに惹かれ、あの店に惹かれ、つい足が向いてしまうと、支払いの心配を打ち消すかのごとく足早になる。「居酒屋 蝦夷」で金を払ったことが無いわけではない。だが、支払いをした記憶が殆んど無い。近所に住み、一人で行くようになって、数回は払ったかな。そのうち、奥さんが、
「くまさん、今日はツケだよ。いいねえ、おとうさん。」
と、大将に振り、夫婦でにやりと笑っている。次回も、次回もまたその繰り返しで、その日も、私が帰りにもぞもぞしていると、
「クマ、払いはどうでもいいから、お前、毎日、蝦夷に来い。」
と、言われたのを良いことに、卒業まで皆勤した。旭川出身、姉さん女房の奥さんと、私と十も年の差が無い大将から、弟のように可愛がってもらったものだ。この後も、学費滞納の張り出しは続いたが、当時の私にとって、酒のおかわり自由の夕食が保障されている豊かさは、今でも表しようもない。

勉強熱心で、何事にもストイックに臨む大将に、小柄ながら、道産子の気質であろう、大らかで度胸者のおかみさん。そして、二人の共通項は、その茶目っ気、といったあたりが、常連さんを引きつけ、離さなかったのではなかろうか。私の青春時代真っ只中、最も濃い時を過ごした人。

10年前、奥さんの病状の悪化から、鳥取の店をたたんで、夫婦は旭川へ。町外れの自宅を改造して、小さな料理屋を営んだ。しかし病状は好転せず、4年前に奥さんが逝き、昨年は大将までもが逝ってしまった。

生前、
「俺が死んだら、クマ、その時はよろしく頼む。」
と、彼が言った時、茶化したりしなければよかったのに、彼の遺志を今更探ろうとすると、胸が強く痛む。それを一人で想像するには、心が破れてしまいそうになる。しかし、心が裂けずに保たれたのは、1年前に会うことができた、旭川のあの人々のおかげだった。最期に大将が、親交を深めた人々、その誰もが、今でも暖かく彼を想ってくれるからこそ私は救われる。

遺品整理に、人々が駆けつけてくれた。足掛け4日の作業の大半は、食器の類の持ち出しだった。小さな店だったにもかかわらず、心づくしの料理を盛るために、方々から集めた器の量が尋常でない。家の解体にあわせて、スクラップにするには忍びなく、運び出して、日常使いあうことができたら最善と、ほぼ家を空にできたとき、
「お見事、お見事。」
と、大将が笑ったような気がした。

彼の遺品を詰め込んだハイエースで、小樽港へ向かう。道中、過の人々から、
「ご苦労様。気をつけて。また会いましょう。この次は家族と一緒においでよ。」

と、電話やメールが入る。誰一人血のつながりはないのに、大将を介したこの縁は、いつまでも、間違いなく続く、彼が残してくれた私への遺産だ。

救世主

北海道から家に帰り着くと、息子がまだ起きていた。向こうでの出来事と、北の人々からの言葉を、ひと通り伝え終えると、
「行こうクマさん、今度は一緒に北海道に行こう。」
と、息子が言う。
この春から大学生。自宅から自動車で通学する息子は、長期休暇や休日の9割方、私の元で農作業のアルバイトをしている。その彼が、1年前から気にしてくれていたのが、今回の私の「使命」だった。苗作りの頃は、
「田植えが終わったら北海道行くんか?」
田植えが終われば、
「北海道は?」
と、尋ねる。
「状況が許さんから、こりゃー、稲刈りの合間に、時間作って行くしかないなあ。」
と、答えれば、秋、ここぞとばかりの活躍を見せ、休憩抜きでコンバインを動かす。籾摺りとなったら、1日中でも米を積み上げる。すると、作付けの85%を占めるコシヒカリの稲刈りが、9月を1週間残して終わってしまった。まさにタフで心優しき救世主。
春から、トラクターや田植え機に乗せても、自動車免許を取りたての少年には、大型で特殊なものだから、怖気づいてもおかしくないはずなのに、
「よし、やってみるよ。」
と、乗り込んで、基本をはずさず、見る見る上達する。苗作りや草刈りといった、地を這い、息が切れる苦しい作業も、
「何ともない、何のこれしき!」
と、ものともしない。思えば、日に日に頼もしくなる息子を、喜ばしく思えてならなかった今シーズン、これら、踏ん張りの一端に、親父を北海道へ向かわせようとの、心が込められていたのだと思えてならない。
「よし、これで行ける。9月23日に北海道に行く。」
と、私が言い放った時、彼が見せた、達成感にも似た表情がその理由だ。
ハートがある、人の心の機微がわかる、いつの間にかそんな男に、息子が育っていた喜びを抱えて、昨日最後の稲刈りを終えた。

明日10月21日は、「大将」の家の解体だ。近々また、おむすび作って、比叡山へ報告に行って来よう。救世主の運転で、ね。農樹通信 比叡山延暦寺

2009年 春

堪えよう

高校卒業を控えて、滅多に学校へ行く必要も無くなった息子と、今日の昼は、親子丼を作って食べる。
「できたぁ、食うかぁ。」
「おー、食うかぁ。」
二人でがっついていると、テレビには中川昭一君が、イタリアでやっちまった画像が映っては消え、番組の出演者達が、
「薬を飲みすぎただけでこうなりますか」
「これは酒を飲んでいますよね」
など、真面目に話している。こりゃ、面白い。
番組は中川君の一日を時系列に、
「大臣の動き、ここまでは不自然ではないのですが…」
なんて、大真面目にやっている。これほどマスコミが心踊る出来事が続く政権は、滅多になかろう。麻生政権はマスコミの上得意だ。新聞、雑誌、テレビ、ラジオの各社、この不景気に経費節減できて嬉しかろうよ。永田町界隈を徘徊してさえいれば、得ダネなのだから。いやぁ、誠に面白い。踊る阿呆に、見る阿呆。はっはぁ、昼間っから、よたよたのおっさん眺め、にたつく俺も阿呆。

日本人として、恥ずかしさも、情けなさも、憤りをも、それらもろもろ親子丼と一緒にごっくんしよう。おっさんがしでかしたことを、見世物として捉えようではないか。日本では、日々を一生懸命働いて、まじめに納税の義務を果たしていれば、こんな滑稽な一幕を先生方から、見せてもらえる国家なのだ。勤勉で純情な、世界の田舎もんの日本人は、数十年もの長きにわたって、飽きもせず、お祭りのような選挙を続けてきたわけだ。そのお祭りで選ばれし先生方は、学芸会のような議会の場で、予めの質問に官僚様がご用意下すった答弁を「読む」と、読み間違える。もーっ、たまらん、面白くてたまらん。田舎もんの、田舎もんによる、田舎もんのための選挙と政治、とでも言うに相応しい。お国のことより、我が暮らし。民衆は利権を求め、政治家先生は権力を求めて、双方馴れ合いの世は続く。
息子にはこの騒ぎを説明しておこうと、話しかける。
「G7っちゅう先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議に日本を代表して出席したのが、この中川。経済危機の最中の国際会議だから、どれほど良い相談ができたか、世界の注目が集まっていたわけさ。そしたら、なんと、記者やカメラの前にぶいぶいに酔っぱらって出て来よった。こいつは。」
「…、ふーん。○○よりひどいなぁ、これは。」
「ひどいやろう。情けない、とっとと辞めさせりゃいいのにのぉ。ところで一樹、今、何よりひどいって言うた?」
「ん?くまさんよりひどいって言うた。」
「うっ、…。」
親子丼を噴き出しそうになるのを堪える私は、かろうじて息子に、
「このアホ!俺とこんなやつ比べるな!」
と、切り返すのが精いっぱいで、
「くまさん、これとそう変わらんよ。」
と、息子からくる、さらなる一撃に、そそくさと丼の残りをかきこんで、ごっくん、退散、退散。
近頃、親父面して下手なことほざけば、さらりと、そしてぐさりと切り返されるようになってきた。この時、本当は内心、
「俺がやる時はもっとすごいさ」
と、言おうかとも思ったが、自慢にもならないので、ぐっと堪えた。

徹底的にやろう

後日、ビートたけしが、何かの席で語っていたそうだ。
「中川さんは中途半端でいけねえな。G7のあれは、最初っから机の上で突っ伏しているとか、ゲロでも吐いて帰るくらいでなきゃね。」
そうだそうだ!半端もんめ。
たけしの言葉で、思い出した出来事がある。私の近所の友達が数年前、地元消防団の役員を仰せつかっていた時期があった。その日の夜、彼は、歴代の消防団長が列席する、年度初めの重要な集会を控えていた。しかし、そんな素振りを見せること無く、その日の日中、町内の仲間たちと、私の仕事を手伝ってくれた。仲間たちが集まり、加勢してくれた日の夕方は、酒を酌み交わすのが常となっており、その日も夕方から、気心知れた連中で酒をかっくらった。重労働の後の酒宴、1時間もすると、皆、相当に酔いが回ってくる。ましてや、人気者の彼には人一倍酒が注がれ、いよいよろれつが回らなくなったころ、
「こりぇかあ、ぼかぁ、しょーぼーーにひってきぁす。ごっつぉーさん。」
と、立ち上がろうとするが、正常に立ち上がれない。表情も酔っぱらい特有の緩みきったものに変り果てているから、誰もが止める。しかし、行くと言い出したらもう聞かない。彼は、つかまり立ち、あちこちにすがるように歩き、消防団の集会へと旅立った。
何度か転んで、擦り剥き傷を負いながら、その集会にたどり着いたのは、歴代団長様方の、御挨拶も終わり、大先輩方のご機嫌よろしく、乾杯の盃がかざされた、まさにその時だったそうだ。
「ドアを開けて、いやぁ、おそくなりましたぁ、もうしわけぇ、まで言ったら、おおーっ、ゲーって、俺はそこにゲロまき散らしましたがなあ。」
と、彼の後日談だ。
彼の話を嬉しげに聞くのは、先日のメンバー、手にはグラス。
「上等、上等。ほれほれぇー。」
と、また彼のグラスに、なみなみと酒が注がれる。
そうさ、半端じゃないんだ、僕たちは…。最近、彼は、我が家のホームページの立ち上げに苦心してくれている。

2008年 夏

熱き夏

7月に入ると、
「お天道さん、あんた怒っとんね?」
と、空を見上げて呟いてしまうくらい、肌を焦がし、痛みを感じさせるような日差しが降り注いだ。そんな暑さがやって来て、息子の高校野球最後の、短くも熱い夏もやって来ては去って行った。
彼は高校1年の秋に、腰椎分離症を抱えてしまって、もがき苦しんで、2年の秋まで満足に練習もできなかった。俺だったら腐って辞めているに違いないだろうに、治療とトレーニングを並行し、辛抱と努力を重ねて、迎える事ができた最後の夏。残すところ、私からしてやれることは、試合の全てに出かけ、背番号15に心の中で賞賛を、そして、チームへ声援を精一杯送ってやることくらいだ。私は、試合ごとに熱く、勝ち上がるごとに熱くさせられた。そして、中年のおっさんを青春真っ只中に引き込んでくれた連中に
「ありがとう」
と、言いたくなる。さらに、
「こいつらに一日でも長く野球をさせてやりたい。」
と、願ったのだが、ベスト4進出をかけた試合で敗れ去った。
欲を言えばきりが無く、残念だが、清清しい。熱くなれることがある幸せと、散っても花を咲かそうと努力を重ねたことの尊さを知り、彼もおそらく清清しく、そして、少しは自分を誇らしく思っているのではなかろうか?今夜は中華料理でねぎらってやろう。
応援団のバスが、選手達より一足早く学校に着き、息子を待っている間に、友人からメールが入った。球場を後にするとき、
「これで青春も終わりですたい」
と、打っておいた私のメールに対する返信だ。
「大丈夫、貴方の生き様そのものが青春です。」
だと…。うっ!

策士

その夜、中華レストランで、オーダーを済ませて料理が運ばれるまでの間に、
「野球を続けさせてくれてありがとう」
と、彼なりの言葉で話し始めるから、ほろっと来るではないか。
「こんなこと言える男に育っていたのか…」
と、今日までのことに思いを馳せる間もなく、
「進学させて欲しいので、お願いします。」
と、息子が切り出してきた。故障をして、トレーニングや治療を重ねながら野球を続けるうち、医療系の大学に関心を寄せていることは知っていた。しかし、それまであまりに漠然としたことでしかこちらに伝えられなかったし、お互いに、進路について語り合うことを避けるような空気もあった。だが、今回は違う。いかんせん話しを切り出すタイミングが良すぎる。この時を見計らって、伝える言葉も用意されていた。つまり私は、ヤツの策略にまんまとはまってしまったわけだ、と思えばおかしくなった。親父を手玉にとる息子を後押しせざるをえんだろう…。

区切り

妻はそれまでに、息子が話す学校の名をいくつか耳にするたびに、本屋で立ち読みなどしていたらしく、ちょいとした医療系大学の通になっていた。息子もこの日を境にして、積極的に進路指導の先生と話し、オープンキャンパスとやらにも出かけ、資料も日に日に増えてきた。さすがの私も資料に目を通し、妻の話しに耳を傾けるようになると、そのうち、
「ここが、あいつの思いに最も近かろう。」
と、いう学校が見えてくる。妻も、
「私もここだと思う。」
けれども、
「払えるん?」
と、言うじゃないか。
「ここを読んどいて…ね。」
と、開かれた学費のページに記された金額を見て、あっ!開いた口が塞がらない。
「…、まあ、オープンキャンパスから帰ってきてからの話しということで…」
と、お茶を濁す。
その日、ヤツは意気揚揚と帰ってきた。
「最高だった。感動した。」
なぞとほざいて、鼻の穴が膨らんでいる。例の大学のオープンキャンパスから帰ってきたのだ。台所で母親相手に雄弁になっている。
「こりゃあやばい、やばい。」
と、私は盃片手、テレビに熱中しているそぶりで通し、適当に酔っ払って早々と寝た。
すると翌日、
「クマさん、話しがあるんですけど…」
と、ヤツが来たー。
「昨日行ってきたらさあ、俺の気持ちにぴったりのとこやったんよ。」
「…。」
「行かせて欲しいです。」
「…。」
「お願いします。」
「全く、お前はひどいヤツやなあ。よりによって俺の誕生日に、目から火噴きそうな学費のとこに行かせてくれってか?」
「まあ、まあ。ねえ、クマさん、まだまだ元気やん。頑張ってくれよ。必ず親孝行するからさ。」
「なにぬかす、俺だって、元気そうに見えるだけで、一つや二つ病気を抱えとるかもしれん。」
「クマさんなら、まだ大丈夫。そんなこと言わずに元気でいてくれよ。」
「なんじゃ、学費出してもらわんといかんから、元気でいてくれってか。」
「まあ、まあ。クマさん、酒はいいと思うよ。でもタバコはやめなよ。」
「俺は意思が弱いけん、ニコレットの力でも借りんとやめられん。」
この時、一瞬ヤツの鼻の穴が膨み、そして会話は続く。
「お願いします。しっかりやりますから、ねえ、クマさん、お願いします。」
「まあな、こんなこと値切っても仕方ねえ。俺だってお前の親父だから、ここを志望するだろうとは思うとった。」
「と、いうことはいいの?」
「ほんとに、お前はひどいやっちゃ、こんな誕生日のプレゼントってありかあ。」
「ははは、ありがとうございます。」
私の誕生日の晩餐には、手作りのにぎり寿司がずらりと並んだ。妻からはリボンが掛けられた酒、息子から、これもリボンが掛けられた包みが…。中身はニコレット。
「まったく、ひどいヤッちゃ、うちの息子は。」
と、言うと、妻が返す。
「クマさん、何年タバコ吸ったん?」
「んー、19歳吸い始めで25年かあ。」
「四半世紀やん、いい区切りやん。」
だとさ…。44歳働き盛り、ええーい、禁煙4週目に突入だあい。

追記

息子は、学校帰り、ドラッグストアに立ち寄って、ニコレットを手にすると、自分が制服姿であることに気付いたそうだ。近くにいる店員さんに、
「構わないですか?」
と、尋ねると、他の店員さんを巻き込んで、その場で相談が始まったという。その結果、
「高校生に販売するわけにはいきません。」
と…。そして、慌てた息子は、携帯電話で妻に、
「大変だ、高校生にはニコレットを売ってくれないらしいから、買っといて!」
と、連絡をとり難無きを得たのだそうだ。
私の44回目の8月5日は、なんだか嬉し、悲し、やっぱし嬉しの日となった。
それから2週間もすると、朝晩涼しく、明け方は寒ささえ感じるようになってきた。ニコチンへの依存度は下がり、自分がアクティブになっていることに気付く。日中は日差し柔らかく、秋の気配。
今年は暑さの中、熱くなりながらも、清清しく、嬉しさに満ち満ちた、いい夏だった。

2008年 春

よっ、日本一!

表彰されたのは私じゃないが、そんなの関係ねぇー。グランプリなのだ。日本一なのだ。その栄冠に輝いたのだ。
表彰されたのは、京都市中京区の竹内康宏さん。数年前からお付き合いしているお米屋さんだ。五ッ星お米マイスターである氏が、「2007年度お米マイスター全国ブレンド技能グランプリ」なるコンクールに、我が家の米を主原料に、ブレンド米を創作して出品。全国3944名のお米マイスターの中で、「いっとーしょう!!」になったのだ、と…、よっ、日本一。
今年度のコンクールは、「寿司飯」用ブレンドがテーマで、出品した作品は、「粒がはっきりして、付着良好、20時間後も硬くなりにくい」との評価を得たのだとか…、いいじゃなぁい。うちのお米の特徴が出てるじゃなぁい…、よっ、日本一。よくぞ使うてくだすった。
この度のことをたとえるなら、氏が個性豊かな選手を束ねた胴上げ監督で、うちのお米はそのチームの4番バッター。さしずめ私が選手の親であり、トレーナーといったところかぁ。ばんざーい。

私達の出会いは大阪。米の産地関係者や生産者、そしてお米マイスターが会する交流会でのことだ。米の業界ではここ京都、ましてや綾部の米など全く無名の存在。そうとはつゆ知らず、のこのこと出かけて行った会場で、なみいる有名産地に群がる人々に、
「産地じゃないよ、お米の作者が誰かだよ。」
と、訴えるも、
「へえー、きょうとお〜」
と、目を合わしてももらえず、鼻にもかけられない有り様だった。私は、
「くっそー、あんたたち、香港でも行ってルイ・ビトンあさって、本物やったぁっ、偽物やったぁって、喜んだり悔しがったりしときゃーよか、ふんっ。」
と、心の中で叫んでいた。
そこへ、

「僕は京都の米をもっと扱いたいねんー。」
と、かの監督はやって来てくれた。私の米を手に取る監督のまわりの人達が、
「綾部って、どの辺り。」
などと、たあいの無いやりとりをする中、
「もっと白う精米せんの?」
と、精米のプロから見ると、これは如何なものかと言わんがばかりの問いに、
「これの方が美味いかと思うて…」
と、私が答えると、間髪入れず、
「僕もそう思う」
と、監督が言い残すと集団がわいわいと立ち去った。
私と一つ違いで、チームのスカウトも兼任する監督のやり方は、有名校の選手を物色するものではない。数日後、監督から、
「そっちへ伺おうと思いますが…。」
と、電話が鳴り、
「今の米の業界、こんなんやけど、僕はこの商売死ぬまで続けようと思うてます。」
との言葉。以来、季節を問わず行き来を繰り返し、なにおか言わんやのお付き合いが今日に至っている。
農家は田舎にしか居ない。当たり前のことだが、ただし、農家は田舎に居るだけではいけない。世の中には、「上」があることを思い知りながら、研鑚することが必要だ。監督と知り合って、
「こんなんもあんねん、くまさん、こんなんだってあんねん。」
様々な米を手に取らせてもらいながら、
「くまさん、全国区に打って出るには…、」
どうしよう、こうしようという米作り談義を、積み木を積んでは崩し、崩しては積むうちにチームは躍進したように思う。これが、俗に言う「コ・ラ・ボ」っちゅうもんじゃろか?
ハンディやコンプレックスも時には力になる。先の交流会で、
「きょうと?あやべっ?」
と、私をあしらうように言ったおっさん達の視線の先には、新潟の看板があった。京都から来ました「農樹」という得体も知れぬ看板では、ブランド好きの人々相手には屁のつっぱりにも成らないということ。
監督もまた京都・祇園で言われた言葉に、20年来コンプレックスを抱えているのだと聞いたことがある。それは、
「大学卒業して、米屋稼業に入ったころな、くまさん。祇園で飲んでてん。その時お姉ちゃんに言われた言葉が忘れられんわ。」
「へぇー?」
「くまさん、その姉ちゃんなんて言うた思う?」
「さぁー?」
「お米屋さんー?ふーん…。なんや皮剥いて売るだけの商売やん…てえ」
「きつーっ」
「…って言うかあ。ずーっと僕、それがコンプレックスやねん。」
と、いう話し。

一樹の陰、一河の流れも他生の縁。同じ木陰に雨宿りし、ともに同じ河の水をくむことは、たとえ知らない者どうしであっても、すべて縁によるもの…、意味のあることだと言うではないか。監督との出会いは言うまでも無いが、あの交流会でのブランド嗜好の人々も、祇園の姉ちゃんも、とても大きな意味を持ってくる…、なんて格好良いことを不肖・中津隈が考えられるのも、なんてったって「ゆうしょう」したからに他ならない。

春が来る。忙しくなる前に、
かんとくーっ、賞状ぶらさげて祇園でいーっぱい飲もかぁ。

2007年 秋

稲刈りが終われば、村人から、
「落ち着いたやろ、暇になったやろ」
と、声をかけられるが、とんでもない。お米の注文に対応しつつ、来年に向けて草刈りやねき上げ(田圃と田圃の境に溝を掘る)、漏水箇所の補修に加えて余計な仕事、けもの避けの電気柵の電線回収が待っている。籾タンクに貯蔵している籾摺りや、袋詰した玄米を倉庫に積み上げる作業は雨降りの仕事。籾摺りが片付けば、ピストン輸送で籾殻をせっせとダンプに積み込み処分する。大方の農家と違って、その仕事のどれもがワンサイクルやツーサイクルで終えられる量ではないのだ。農業を始める時は、もう少し「スローテンポで生きていく」はずだった。これほど田圃を預かるはずではかった。ふうっと、大きくため息を吐いてしまうこともしばしば。ええい、働くばかりではつまらん、息抜きも大事、息抜きも…。

魚釣り

16年ぶりになるだろうか、近頃魚釣りをするようになった。決して高級とは言えない舞鶴湾での投げ釣りだが、自衛隊の艦船や行き交う船を眺めながら、当りが来るのを待つのは心地良いものだ。空は青く波はきらめき、潮の香り優しい舞鶴の海へ餌を付けて一投目を投じるのは朝八時半。2本目の竿も投じると、シュルシュルッとリールの糸がほどけてポチャン…、
「よおしっ、いいとこ行った。」
さあ、これからが早起きした人間様にも餌をいただける番となる。カパッとワンカップを開けてひと口ぐびっ、
「んー、うまい。」
チクワかじってまた一口。メザシを噛み噛み、ぐびっと、
「あー、たまらん、ういーっ。」
極楽、極楽…。そこは平日の午前9時、舞鶴の海。
「サラリーマンしょくーん、きょうもいちにち、げんきにはたらきたまえー」
と、叫びたくなる俺の心は歪んでいるのだろうか。
この釣りの友は75歳、私を我が子のように扱ってくれるおっさんだ。
「ここは30年来通うとるんじゃ。」
と、言うだけに、釣り場に向かう裏道から、魚と人の餌の調達場、竿を振り込むポイントに至るまで熟知している。思い出話しがまたおもしろい。
「10年、15年、もっと前じゃったろうか…、」
おっさんがとり付かれたように、毎日ここに通っていた時分、毎日一人で釣りに来る小学生がいた。そして、毎日のようにそれを咎めに来る母親に、おっさんはある時言ったそうだ。
「あんたあ、そう勉強じゃ、宿題じゃあて言わんときな。この子はワシが見るところなあ…、」
上手に餌の支度をし、仕掛けをこしらえ、竿を振る前の段取り、その後の振る舞いに目を見張るものがある。たかが魚釣りではあるけれど、自分の目的達成のために、いかにすれば限られた時間で、より多くの成果を得られるかを考え、行動する力がある。
「やる時はやる子じゃでよお…、とワシは見た。この子に限ってワシは言うちゃる。がみがみ言わんとなあ、子が思うように狂わせちゃりないや。」
と、のたまったらしい。そして後日、おっさんがかかった魚に竿を引きずられ不覚にも、海の中へと持って行かれ、悔やんでいたところ、翌日もまた、釣り場に来ると、何とその竿が置かれていたのだという。少年が、おっさんのためにひとりで船を漕いで回収したのだそうだ。
「あの子も大きゅうなっとるじゃろなあ。」
道路からひょいと降りたその釣り場は、行き交う人々との声のかけ合いもまた楽しい。散歩の足を止め声をかけてくる人、遠足の小学生達などなどある中で、
「釣れてますかあ」
と、若者が車を止めて声をかけてきた。太い声できりりとした顔立ちにハンチング帽、長身で男前の好青年が、ガードレールを乗り越え語りかける。
「んー、今ふたーつ上げたとこじゃ」
と、おっさんが返すと、
「竿も餌もいーやん。まだまだ上がるよ。」
「そうか、そうか。」
と、若者との会話が弾むうち、
「ところでおっちゃん、名前は…?」
「ん、あん時の坊主?」
と、二人の思い出のアルバムが蘇えり動き出す。

「おー、お前なんぼになった?」
「27。今トヨタで働いとるんよ」
「おおきくなったのお」
「おっちゃん、年とったなあ」
「足がしびれるようになってのお、もう百姓はやめじゃ」
「魚釣りができとったらええやん」

海を眺め、時におっさんの横顔を見ながら、良き思い出話を子守唄のように心地よく聞いていた私の心はさらに和み、やわらかな息をつく。

「お前が拾うてきて、置いといてくれたじゃろ。あの竿、覚えとるかあ?あれのお、引き上げたらのお、魚がまだひっついとったでよお」
「ほんまかあ…。おっ、ひいとる、おっちゃん、ほらっ」
「おっ、よし、よし」

おっさんの竿にかかった魚を取り上げたり、餌を付けたりと嬉々としている青年の姿のその先に、彼の車の窓から顔をのぞかせ、微笑み続ける女性がいる。妻なのか恋人か、1時間以上もほったらかしにされながら、老釣師と戯れる彼を笑って見ている。
「この彼にこの彼女あり」
と、また心地良く深い息をはいた。

その日の夜、妻と息子にこの物語を話し始めると、二人は微笑みながら話しに耳を傾け、聞き入った。物語が完結すると息子は、
「いいねえ」
と、遠くを見るような眼で、その光景を思い浮かべている様子。妻はときたら、
「その彼と彼女は夫婦やないね。付き合い始めてまだ1ヶ月以内というところやね。それくらいの熱々ほやほややなかったら、普通、1時間ほったらかされて黙って待っとらんわ」
だ、と…。
俺は「浪漫」が解る息子がいてくれて…、よー。この上なく嬉しいわ…、ふうー。