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農業生産法人 株式会社 農樹

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農樹通信

2007年 夏

昨今、気象庁は何かにつけて、観測史上始まって以来という。今年も、梅雨明けの遅さは記録的だそうだ。梅雨が長く、雨量が多かったおかげで、ため池の水は、オーバーフローするまでになっているが、その裏返しの、暑くて雨が少ない夏がやってくるかもしれないと思っていると、案の定、約ひと月、雨が降らない。夕立さえない、猛暑日の連続だ。
ため池には、十分に水があるから、渇水の心配はない。しかし、毎日早朝、池のノミを抜きに行き、順番に水を田んぼへ給水してまわるのも、相当な労働なのだ。雨さえ降れば、ひと息つけるものだが、灼熱のお日さんのもと、田んぼ一枚毎の水の回り具合を見て、次を見て、歩いて歩いて、また次の田んぼへと給水。首筋とTシャツの、袖から先は真っ黒に日に焼けし、もともと色白な体の、首から上と腕だけ真っ黒けのコントラストは見事なもので、温泉に行くのが、はなはだ恥ずかしい裸体に変身してしまった。
猛暑の中、体内へ供給する水分量も著しく伸びる。500ccのペットボトルをラッパ飲みしては、トラックの荷台へ、こんころこんとやっていると、生茶に爽健美茶、おーぃお茶に十六茶と、飲料水の展示会場さながらになる。
これに、草刈りという誰もが嫌う作業が絡んだならば、私とともに働いてくれている氏とともに、その日の作業の最後の1時間だけ、水分補給を我慢する。そして、吐く息をぜーぜーさせながら我が家まで帰って来て、開けたらプシュッと音がする琥珀色の液体を、自らへのご褒美にふるまってやることになっている。
「ぷはぁー、たまらんー」
「うぃっ」
フィールドにおける水分補給は、ノンアルコール飲料2000 cc、アルコール飲料1000 cc…、これが午前中に仕事をやめてしまう場合でのこと。生きとし生けるもの、水は命なのだ。いくら汗を噴出しているとは言え、半日で3000cc飲めば当然水っ腹、妻はビールっ腹と冷ややかに見る。
「まあ、よかよか」
自分に褒美を与える理由は他にもあるのだ。
忘れもしない、昨年4月1日、足首を骨折してしまい、今でこそ明かせる、あの時は、絶体絶命のピンチに立たされた。立ち止まるわけにいかない自分に、今でき得るベストを尽くそう…と、言い聞かせながら、種蒔き、手術、また種蒔き…、ギプスを着けたままトラクターで代掻き、そして、田植え。
夏は、リハビリを兼ねた草刈り。稲刈りは長雨で田んぼの土がゆるんで泥まみれ。思い出すのもおぞましい昨シーズン。
しかし、体が満足に動かせないと頭は良く働き、物事をよく考えることができるものだ。一昨年は1町歩、昨年は2町歩と、尻上りに田んぼが増えていく中で、作業体系や施肥体系、その他抱えていた経営上のジレンマや不安を洗いだし、考え、再構築してみる。結論が出なくても、ヒントが生まれ、それらを、今シーズンは片っ端から実行してみた。そうすると、今年はうまく作業が流れていき、余力がうまれるから、好転スパイラルは上へ上へと登って行く。余力が好結果を生み、いつにもまして、田んぼは輝いて、進化しているという実感がある。日照りも、叩きつける夕立も、どこ吹く風よとばかりに稲も私もここに立っている。神様は試練を乗り越えられる者にこそ試練を与えられるのだ!と夕陽を背に興に入り、今宵また自分に褒美を与える理由はここにある。

ピンチの裏側

農樹通信 高校野球で佐賀北高優勝夏の甲子園で佐賀県の公立・佐賀北高が優勝した。佐賀の公立高校が全国制覇したのだ。佐賀なのだ、公立校なのだ。たまらなく、心熱くなり、目元熱くなりながら、
「よかったのぉ」
「ほんと、よう頑張ったのぉ」
と、連日、朝、昼、晩ごとにテレビに映る佐賀北高の彼らを祝福していた。そしてその都度、我が家にいる高校球児の今と重ね合わせながらテレビに見入ってしまうと、目から涙が溢れる。知らぬ間に、妻が横にいることに気づいた時は、即座に頭を上に向け、
「よかった、よかった」
と、立ちあがって、顔を拭き拭きその場を去る、といった数日間のある日…。ひとり昼飯を食べていると、テレビで、「佐賀北」をやっていた。
「おう、やっとる、やっとる(むしゃ、むしゃ)」
キャスターが、
「…、…、…。佐賀北高・野球部の部室の前には、『ピンチの裏側』という詩が掲げてあるんです。…、…、…。ご紹介します。」
と、…。私は飯を、むしゃ、むしゃしながら見ていると…、その『ピンチの裏側』とやらという詩を読み始めた。

神様は決して
ピンチだけをお与えにならない
ピンチの裏側に必ず
ピンチと同じ大きさのチャンスを用意して下さっている
愚痴をこぼしたりヤケを起すと
チャンスを見つける目が曇り
ピンチを切り抜けるエネルギーさえ失せてしまう
ピンチはチャンス
どっしりかまえて
ピンチの裏側に用意されている
チャンスを見つけよう

「…うっ、うっ」
また涙がこぼれきた。さあて、そろそろ、13回目の稲刈りだ!

No rain, no rainbow.
Hope shines eternal.

2007年 春

故郷にて

春になり、またもや故郷のことを思い出す。
島原から博多へ戻り、小倉方面に向かう電車に乗り込む。兄貴に電話をかけると、折尾駅の改札口で子供達が出迎えてくれるという。兄貴と13年ぶりに出会う私だから、小学生の子供達とは、当然初対面。写真でしか知らない2人と果たして落ち合えるのだろうかと、心細く改札へ向かった。まだ距離があって、暗く確認できないが、随分手前から、それらしき子供の影が動いている。駅員と何やら喋っているようだ。駅員と子供達のシルエットがあまりに馴れ親しげに映るものだから、我が血筋に違いあるまいと、確信をもって近付いた。すると、どうだ、『俊久君』と書いたプラカードを持っている。
「京都のおじちゃんばい」
と、呼びかけると、
「こっちばい、おとうさん待っとるけん、としひさくん」
と、返してくるじゃないか。こりゃやられた、俺は40過ぎたおっさんばい…。
充分物心ついてから私が生まれた9歳年上の兄貴にとって、弟はいつまでも、「チビ」なのだ。おかげで2人の小学生から、1泊2日がかりで「としひさくん」と呼ばれ続けてしまった…、まあ、これでよかー。
兄貴一家の新居に着くと、宝ジェンヌばりの美貌の兄嫁さんに出迎えてもらい、早速両親の仏壇に手を合わせた。
「ご無沙汰をしていました、御免。」
と、手を合わせる僅かな時間の中で、両親と兄の4人で過ごした頃の、何気ない日常が次々と、鮮やかに頭を過ぎっていった。

九州から帰ってからの冬のある日、息子がミスチル(ミスター・チルドレン)の1曲を聴かせてくれた。それは、あるアルバムに収録された中の『あんまり覚えてないや』という1曲だ…。その曲は、それまでの願いや、素晴らしいひらめきが形となって現れたり、手に入れることができた時のことは、以外と鮮やかなものではないものだ…。それを
『あんまり覚えてないや』
と、歌いながら、貴重な出来事こそ、克明に覚えているに違いないはずなのに、『あんまり覚えてないや』
そして、
『もったいない〜♪』
と。そして、その後にこう続いていった。スローテンポで…、

じいちゃんなったお父さん
ばあちゃんになったお母さん
歩くスピードはトボトボと
だけど覚えてるんだ 若かった日の二人を
あぁ きっと忘れない
キャッチボールをしたり 海で泳いだり
アルバムにだって貼り付けてあるんだもの
ちゃんと覚えてるんだ ちゃんと覚えてるんだ
ちゃんと覚えてるんだ こんなに
ドライブに出かけたり お小遣いをくれたり
たまに口喧嘩したり すぐに仲直りしたり
ちゃんと覚えてるんだ ちゃんと覚えてるんだ
ちゃんと覚えてるんだ こんなに

話しは前後するが、兄貴一家と過ごした翌朝、久方ぶりの里帰りの目的のひとつである、母校剣道部の初稽古に顔を出した。道場に入るや、私達に、よく稽古をつけてくれていていた、当時は大学生のFさんが、
「なかつくまっ、おおー」
と、駆け寄って、矢継ぎ早に話しかけてくれた。
今も地元に残り、母校を見守り続けるFさん曰く、この20数年間の中に、忘れられない試合があるのだと言う。それが、私が高校3年の時の、全国玉竜旗剣道大会での、大会3日目・ベスト64進出をかけた試合なのだと言う。高校剣士にとって、高校球児に置き換えるなら、甲子園出場にも匹敵するその一戦を、もちろん私も忘れられない。
もつれにもつれた試合の最後、大将戦で私が勝ち、ベスト64進出を果たすことができたのだが、F先輩が忘れられないと言ってのは、それがただ単に、劇的だったという単純な理由からではないことを私は察している。
かつては、玉竜旗大会を制した母校剣道部。F先輩の現役の時は、ベスト8まで駆けあがっている。しかし、それを境に、極端な低迷期を迎えていたところに、私達が入部して、OB会は色めいた。
「今年の新入生なら…、」
全国制覇も望めるというのだ。そんな声を耳にしながら、同期生みな稽古に励んだが、個性溢れる有望株が1人、他校の多勢対1人の喧嘩で失神。それが原因で休学、そして、退部。また1人は、女に走って離脱。ついでに、どうでもいいような連中が、喫煙やその他の理由で離脱してしまうと、同級生は、「やっちん」と、昨年遥々、私を綾部まで訪ねてきてくれた、「黒チャン」の3人になってしまったのだ。
やっちんは、膝の故障を抱え、涙ながらに稽古を重ねる。黒チャンは全くの初心者ながら、高校に入って剣道を始め、努力に、努力の無口な男。私はと言えば、新チームの主将になると、間もなく母親が逝ってしまい、満身創痍の3年最後の大会だった。2年生2人を加えた我がチームの、あの試合で私が克明に覚えていること…。それは、自分の一戦では無い。
試合の流れが、相手に傾きかけた時に登場した黒チャンが、粘って、粘って引き分けに持ち込んだ。あの黒チャンが…と、控える私に奮起の心を与えてくれたことが1つ。そして、大将戦に勝利した直後、両チーム整列して挨拶を交わす前に、竹刀を控えの席に置きに行かなくてはならないのに、私の膝がガクガクと笑っている…。そこへ、竹刀を俺に渡せとばかりに、駆けよって来てくれたやっちんの姿…、それこそが忘れられない。その他のことは、『あんまり覚えてないや』。

初稽古の後はOB会の会場に移る。受け付けに近付くと、今度は、OB会の会長を務めるTさんが、
「なかつくまかーっ、おおー」
と、堅く握手してくれ、その後約10時間飲んだ。
Tさんにも、しこたま稽古をつけていただいたものだ。
「なかつくま、よう帰って来た。お前の剣には力があった、力のある剣やった。よう、覚えとるたい。」
と、手を握りあう度、目がかっかと熱くなるじゃないか。
「覚えられとるばい、俺は…」
幸せものだ。

「覚えていること、覚えられてること…、決して忘れられないこと…、それには育みがあるよなあ。」
ミスチルは、育みあう幸せを、この歌で歌い上げているような気がしてきた。そして、最後の一節、

♪世界中を幸せに出来はしなくたって
このメロディーをもう一度繰り返す♪

俺が育みあった人々。いま一度思いおこして『このメロディーをもう一度』口ずさんでみようとするか、ね。

2007年 冬

見えにくい

岐阜に暮らす稲作農家の彼としばらく会ってない。彼は、毎冬、奥さんの実家のある島原に一家で里帰りしているというから、私が13年ぶりに九州へ帰るのなら、いっそ島原で会おうということになった。ところが、私は九州人とはいえ、長崎県南部に足を運んだ事が無く、土地感が無い。
農樹通信 島原鉄道「山ちゃん、博多から島原に行くには何が良いの?」
「電車で乗り継ぐより、博多からバスに乗るか、熊本から有明海を高速艇で渡るってのが良いんじゃない。」
と、いった電話のやりとりの最中、こちらはJR時刻表の最前頁の路線図を開いて、「ふんふん、それで最寄駅はどこね?」
と、聞くと、
「電車なら島原鉄道・島原駅で、高速艇は島原外港に着くんだわ。」
「ん…、…。」
「諫早から延びてる線が島原鉄道だ。」
確かにJR諫早駅は解った。しかし、諫早から伸びる島原鉄道らしき水色の路線の上にある駅名が読み取れない。
「…、んー。」
電話の向こうで、からかい気味に彼が言う。
「くまさん見えないの?老眼じゃないの?」
と、言われると、私は即座に反発して、酒が入っているから眼が霞んでいるのだ、ということにしておいて、電話を切った。翌朝もう一度路線図を開くと、またもや見えない。もしかして?と、恐る恐るスローモーションで時刻表を持つ手を遠ざけると、見え始めた。近付けると見えない。また遠ざけると、やはり見えたので、私はしょげかえった。
「あーあ、ろーがんだ、ろーがん。」
自分に振りかかってみると、この単語の響きは、誠に厭らしい。この日本語を造った先人に抵抗したくなり、
「英語ならもっと別な言い方をするのでは?」
と、三省堂のポケット辞書をめくってみた。まずlongsightedness(遠視)とあるので、
「ほーら見ろ、英語なら老いると言うニュアンスは無いじゃない。日本人は酷な言葉を造るものだ」
と、思うや、すぐ次に何か書いてある。近付け過ぎていた辞書を遠ざけてやると見えてくる。
(老眼になる)をOne’s sight deteriorates with age.(老眼鏡)は spectacles for the aged.と、書いてあるーと、いうことは、英語もまた、歳のせいだと言っているのだ。
「やめた!馬鹿馬鹿しい。何をやってんのかね、俺も暇なもんだね。」
と、自己嫌悪。ポケット辞書を眼から離したり近付けたり…、見えにくい眼で「老眼」を調べる俺は愚の骨頂だ。

再会

北九州への帰郷は13年ぶり、高校時代の友人とは20年ぶりの再会だ。まずは亭主も嫁さんも同窓生の夫婦のもとへ。
「おーい、来たー。」
「変わらんね。」
と、嫁さんの方に言われて戸惑った。白髪が増えて腹が出っ張った俺を見て、
「変わらんねは無いやろう」
と、言えば、
「男子の変貌ぶりはすごかよ。なかつくまくんは変わらん男子の最右翼くらいにあたるばい。」
と、いうことらしい。この家の主・やつこそ全く変わらず、高校の時そのままだった。まずは、プシュっとビール、
「1本目は出してやるけど、次からはセルフばい。冷蔵庫開けて勝手に飲んでくれんね。」
と、気がねが無い。先着の同窓の女子とこの夫婦と私で…、乾杯。近況に昔話、誰かのうわさ話と、あっちこっちに会話は飛ぶ。もつ鍋の準備にかかりながら、またプシュ。そのうちグラスに氷が入り、焼酎オンザロック、カランカラーン。嬉しくて、話したくて、聞きたくて、酒がいくらでも体に入っていく。
「中津隈、今日はとびっきりの刺身ば食わしてやるけんね。」
と、大皿刺し盛りがどかん。
「ほら食え、食え。行きつけとう魚やん親父に、俺がいーとばっかり奥から出してこんねっち言うたらちゃーんと出てくるったい。」
と、言うだけあって、一品一品が特級品であること一目瞭然。
「これ食うた?これ食わんね。」
「うまい。」
「ほらあ、これ食うわんね。」
「うまかねー。」
するっと焼酎が入っては、目が潤む。高校時代、やつはサッカー部で私は剣道部。ともにクラブ活動は熱心だったが、成績は底辺をさまよう「できん」仲間、「悪さ」仲間の中でも、するっと心の中に入り込む優しさを持った男(やつ)。
農樹通信 五平太船我等が母校は、筑豊から洞海湾へ石炭を運搬する、その名も五平太船が行き交った堀川沿い、JR折尾駅付近にある。その街の背景から、労働者が多かったことや、駅周辺には大学、女子大、医大、普通高校に女子高とあり、学生も多かったからか、決して上等とは言えない飲食店が数多くあった。「できん」連中や、「悪さ」をしでかす連中は、夜に限らず町をふらふらしている酔っ払いをよそに、よくそういった店に出入りしていた。そんな店の中のひとつ、「はしもと」という名前を、
「覚えとうね?」
と、やつが言い出した。
「特ちゃんのね?」
特ちゃんとは、特製ちゃんぽんのことで、「はしもと」はとろみを効かせたちゃんぽんスープが特徴だった店。
「そうばい、特ちゃんのはしもとに、この前行ったったい。」
「へえー。」
「そしたらくさ、値上がりしとったったい。昔180円やったろうが、それが値上がりしとって200円になっとうたと…よっ。はははあ。」
「わはは、ひっー」
頑固でおおらかで、滑稽な故郷健在とばかり、そっくりかえって笑ってしまった。「20円値上げするんも、悩んで悩んでから上げたとやろーねー。」
語り明かして気がつけば朝6時。仮眠をとってから折尾駅に送ってもらった。「いっつでも帰って来い。いっつでも帰って来たらいーばい。」
…とかくさ、涙が出そうになるけん言わんでくれんね。帰るばい、九州ば忘れとったわけじゃなかもんね。ご無沙汰しとったのに、ありがとう、嬉しかったばい。「じゃあのお、またのお。」

島原での再会

友にJR折尾駅まで送ってもらい、電車で博多へ、そして島原行きのバスに乗り込む。3時間後には普賢岳が見えてきた。
「また変な出迎えしなきゃいいがなあ。」
人目を憚ることの無い、「ヤツ」には、再会そして別れの度、身が縮まる思いを味わされてきたから、出会う前には、心構えが必要なのだ。おそらく何か叫びながら抱きついてくるに違いない。
彼は警視庁を辞め、’95年から岐阜県八百津町で島原出身の奥さんと娘の3人で稲作を営んでいる。就農した年が同じなら、年齢も近く、家族構成、よそ者入植者で体育会系ときているものだから、気が合わない訳が無い。
間もなく島原駅前とのアナウンスに、そろそろ覚悟を決めると、交差点に向かうヤツの姿を発見。こちらが軽く右手を挙げると…、きたっきたー、大股を広げ、諸手を大きく振っている。バスを恐る恐る降りると、やれやれ。信号待ちの交差点の向うから、
「くまさーん、ようきたー。おーい、まっとったばーい。」
通行人が振りかえり、そして立ち止まる。間もなく青信号に変わったから救われたものの、この場面で信号が変るまで叫び続けるのがヤツの習性なのだ。この後大抵は所構わず、大柄な男同士の抱擁となるのが常だが、今回、私がそこそこ荷物を抱えていたおかげで免れた。
さて、今宵2人の宿へ向かう途中、バドワイザーを2、3本ひっかけただけで、前日の酔いが舞い戻りほろ酔い気分。いかん、これでは本日の一戦を乗り切れない。食事は、有明海を臨む風呂で、体内の残存アルコールを抜いてからにしよう。
風呂上り、彼の奥さんと共に3人、老舗旅館の料理に舌鼓を打ちはじめると、今宵も酒が、するする喉を通り抜け始めるから恐ろしい。愁うべき酒のみの性。互い身の上に共通点が多いので話しの呑み込みが早く余計な説明が要らない。会話はハイピッチなキャッチボールのごとく進むから、盃も進む。
「こうして島原で飲めるなんてね…。」
「農業をするだけで精一杯だったけれど、こんな余裕も、少しはできたってことだね。」
と、締めくくり、宿での酒宴は幕を閉じた。

島原の屋台

奥さんが実家へ引き上げると、酔いどれ2名はふらふら街へ繰り出した。さほど開いている店は無かったが、梯子酒をしなくてはおさまりがつかないので、まずは1軒目。店主が酔っ払って、何を話しているのか解らない鉄板焼きの店を経て、次は、駅前の屋台へとハシゴした。
相撲がめっぽう強いという屋台の主人は、にこやかで愛想が良く、その面白くて滑稽な話しが、こってり味付けされた九州弁で、テンポの良く出て来るものだから時の経過を忘れてしまう。
主人もまた、ぐびりとコップ酒をやりながら、3人でわいわいやっていると、60歳くらいの小柄な目つき怪しい酔っ払いが1人、彫りと皺が深い顔を暖簾の内にのぞかせ、だらりと腰掛けた。
「いらっしゃい、なにんされますか?」
と、主人が声をかけると、おっさんは、うなだれた頭をじわりと持ち上げて、
「…、…、さーけぇ」
「はいっ、冷やですか?燗ですか?」
「…、…、あつかーん」
おっさんの注文を聞くと、主人は酒を注いだチロリを、屋台の外のコンロにかけて、すぐまた談笑の輪に戻ってきた。図体も声もでかい男たちが、暫らくわいわい騒いでいると、今度は、隣りの屋台のおばちゃんから声がかかる。
「たぎっとるばぁい」
「ありゃあ」
主人は慌ててチロリを取り上げ、たぎった酒をコップに注ぐ。
「あつっ、あつかー」
と、言いながら、熱くて持っていられないコップを、もう一度持ち直し、反対の手に持った空のコップにジャーと移す。
「あつっ、あつっ」
右から左へジャー…、
「あつかーぁ」
左から右へジャー…。おいおい、沸いた酒を冷まし売る気か?主人は、何度かジャーを繰り返し、その様子を、黙って見ているおっさんの前に
「はい、熱燗」
と、悪びれることも無く出しちゃった…から、絶句した。どうなることか、この場面の行く末を恐る恐る見ている我々の隣で、おっさんが、ちびりとこの「熱燗」を口にした。
「あつかー」
と、コップを差し戻す。ほら、みたことか…。酒、注ぎなおせよと、内心思っていると、主人は、こともあろうに、
「あつかですか」
と、自分もおっさんの酒をすすってみる。そして、
「ほぉ、あつかね」
と、コップを両手にまたジャージャーして
「はいっ、これでどげんですか?」
と、おっさんに差し出すから、我々の眼も、口も開きっぱなしとなる。そして、おっさんが、再びそれを口にして、
「まーだあつかー」
と、返したところから、笑いが止まらなくなってきた。
今度は、主人が入念に、ジャーーー、ジャーーーして、おっさんに差し出す前に一口すすって温度を確かめる。そして、今度は自信ありげに、
「これでどげんですか」
と、胸を張って出した。さあ、この結末は、と息をのむ我々。おっさんは、コップを手に取り、ゆっくりと口に運んで、ちびり、
「…、…、これでよかー」
と、納得げにうなづく。
たまらんばい、笑いが止まらん、たまらんばい、九州はこれでよかー。

島原での別れ

楽しく騒げたおかげで、翌日はきつい二日酔いを免れた。島原城を散策して、奥さんの実家で、ちゃんぽんをご馳走になると、そろそろ博多行きのバスの時間が迫ってきた。
「普通に別れようよ…な、山ちゃん…」
と、願いつつバスに乗り込んだが、なかなか発車しない。ヤツが何かしでかす前に、一刻も早く発車して欲しい。しかし、願いは天に届くこと無く、バス前方から、
「おー、くまさん!」
と、大声がする。ヤツがバスに乗り込んで来た。運転席の横に立って、手を振っている。
「んー…」
私に手を振っている。
「くまさん、元気でな」
「わかったから降りろ」
「またなあ」
「いいから降りろ」
力無く叫ぶ私をよそに、大音声で「気をつけてなー、元気でなー」と言い放って降りて行った。たまらんばい、でもまあ、これでよかー。

2006年 秋

厄はいつ落ちる

9月になると稲刈りだ。この夏は、春に骨折してしまった右足に、「しっかりせんか!」とはっぱをかけつつ、リハビリを兼ね、歩きに歩いて、生育管理に精を出した。おかげで、稲は上々のでき映えだ。コンバインも乾燥機も籾摺り機も充分整備してある。こう来ると、どんなに良いお米が穫れるやろかと、気分も弾む。
期待に胸膨らませて、意気込んで、刈り取り開始。まずは、一番刈り終了。籾を乾燥機へ放り込んで、翌日には、乾燥終了だ。それをタンクへ移し替える。これを籾摺りしてしまえば、今年の米のお姿拝見となるのだが、そのお楽しみは先送りにして、二番刈りへいざ出陣。
数日後、いよいよ、籾タンクに放り込んであった、一番刈りの籾摺りをしてみる。「プリプリの米、おー、きれい。」
春に受けた、厄年のハプニング・右足骨折、苦難、異常気象も見事に乗り越え、どうだ、男・中津隈ここにありーっ、と叫びたくなるプリップリの玄米が出てくる出てくる。18年産米のキャッチフレーズは、

「本厄なにするものぞ」、ってのも、良かろうか?
「七難八苦乗り越えて」、もなかなかいいぞ、なぞとほくそえんでると、30キロ毎袋詰めして、積み上げていく米袋が何と軽いことか。
「そーれほいほい。」
「これが5ヶ月前に、くるぶしを骨折した男の成せる技か?」
「俺は鉄人やろか?」
「んんっ、足に金属打ち込んでましたね。」
「なーんのことなかー、ほいほい。」
「それにしても、よか米ねー。」
と、自画自賛。

だが、それから間もなく、秋雨前線が活発になり、雨が続いた。8月に僅かの降雨しか無く、晴天続きだったから、嫌な予感はしていたが、それが当たった。土砂降りの雨が丸3日降り続いて、倒れかけていく稲に、容赦なく、また雨。そして、さらに雨。いよいよ、雨がやむ間を見計らって、稲刈りするといったあり様になってしまった。
長雨の合間の稲刈りは、人にも機械にも辛いものだ。コンバインのあちこちで、稲や泥がつまって、それを取り除くときの情けなさといったらない。好天なら屁でもない稲刈りが、辛い仕事の波になって押し寄せる。くたくたになって、その日の仕事を終えても、作業進捗は知れたものだ。お天道様に、恨み節は聞き入れてもらえず、気持ちは焦るばかり。
コンバインもまた、稲を刈り取るバリカンに似た刃の切れ味が悪くなるばかりか、爺さんの入れ歯のように、ぶかぶかなってしまうあり様だ。注油を怠ることはないが、これほど泥を噛まされたら、ガタツクの必至。その刃に駆動を伝えるクランクもいかれてしまって、双方交換したら、はい20万円…、だとさ。

こちらがギブアップする寸前に、お天道様の気まぐれは持ちなおし、ダウン寸前にコシヒカリを刈り終えた。そうすると、この秋の疲労のみならず、おそらく春のトラブルから始まる疲れの蓄積が、マグマのように溢れ出てきた。肩や足腰が張り、夕方になると力が抜け、頭はぼんやりして、記憶力が極端に低下している自分に気付く。
近頃、身の回りのものまで、私と仲良く、がたつき始めた。手始めにアイロンが壊れ、かなりの年代物だったので仕方なかろうと、かみさんと電気屋に行くと、今時のアイロンはコードレスになっていて驚いた。それから2、3日後、かみさんが、
「今度は、洗濯機が壊れた。」
と、言うので、何か引っかかっているだけだろうと分解してみた。異物なんか何も無いのに、駆動シャフトが回っていない。
「買い替えるしかないか。」
配送料と据えつけ費用を節約したので、結局丸1日、我が身を洗濯機に捧げてしまうはめに。
まだ続く…。ファクスが壊れていることがわかって、泣く泣く電気屋へ向かうべく、支度をしいてると、
「くまさん、電子レンジも壊れた。」
と、妻の声。何もかもが、がたがたぴっちゃん、あー、厄はいつ落ちる。
電話機もパソコンも、怪しい動きをしていることを、俺は知っている。

2006年 夏

厄年

毎年1月、近所の厄善神社の祭りが近付くと、「お声」がかかるので、そこそこの金額のお供えを包んで、のこのこ出かけている。例年、受け付けで献金し、ご祈祷申し込み書に氏名・年齢を記入して、家内安全、無病息災、大願成就あたりに丸をつけ、手を合わせて帰ってくるのが常だ。
今年も、いつもと同じように書き込みをしていると、
「くまちゃん、本厄じゃ。」
と、受け付けにいるおっちゃんに言われて戸惑った。
「うっそー、俺って、今年は後厄やろ?」
すると、そこにいた2、3人が、
「お前、今年で42になるんじゃろ。」
「うん。」
「本厄じゃ。」
「うっそー?」
「うそって、お前、昭和39年生まれなんじゃろ。」
「うん。」
「ほらー、間違い無く本厄じゃ。」
「へえー。」
どうも、私は勘違いをしていたようで、当年42歳、今年が本厄っていうものらしい。そうは言われても、特別にご祈祷をお願いする術も、その気も無いまま、
「ありがたくも無いことを、知らされただけかよ?」
と、境内でふるまわれるぜんざいを、一杯すすって帰った。

ところが3ヶ月後に事件は起こる。
稲作シーズンが到来すると、種籾を処理する。育苗の土、肥料や資材が入荷する。種蒔きの準備、苗代の準備に人の手配をして、この春の作業工程が整いかけた4月。なんと長梯子からおっこちた。かなり冷え込んだ日の早朝、作業場の2階部分にあたる所に押し込んである資材の在庫を確認するために、長梯子をかけて登った。いつものように登った、登りきった…、すると、あらっ…。梯子の足もとが後ろにするする逃げて行く。どうもコンクリートの盤面が濡れていたようだ。梯子をかけた相手側を掴みかけたが、まだそこにいる梯子が邪魔をする。掴まり損ねて、あー、一巻の終わり。
レントゲンを見るなり医者は、
「手術しましょう。」
「はあ、今からですか?」
「何を言ってるんですか、手術となると手続きや検査をしますし、部屋の空き具合も確認しないといけません。」
「先生、部屋の空き具合って言うことは、入院しないといけないの?」
無知な私は、右足のくるぶしの骨が2箇所割れている写真を前に、局部麻酔程度で今から手術して、とっとと帰る気でいたものだから、全く話しがかみ合わない。関節に当るこの部分の骨折は、全身ないし、半身麻酔をかけて金属プレートで固定するのだそうな。そして、手術前のいろんな検査、手術、術後の処置などで、2週間の入院を要するのだそうだ。
「先生、今日のところは仮ギプスだけで帰ります。」
そう、この時、この春1回目の種蒔きと苗代作業が控えていた。尻上りに忙しくなるのに2週間も病院でおとなしくできるわけないもんね。
「後遺症がでる可能性が高い。」
と、言われても、
「私は稲作農家。これから、ひと山、またひと山と乗り越えていかないと、収穫の秋が来ないのです。」
そして、目の前のひと山を越えて病院へ向かった。
「どうですか、手術をしませんか?」
「2週間も仕事を空けるわけにいきません!」
医者は、リスク覚悟の上でならという前置きの後、
「1日で帰れるように手術を組んでみましょう。」
と、言われた。
「ほんと?先生、1日で。だったらこの日にやってください。絶対この日。」
手術日を指定する患者は珍しいようだ。
手術当日は、午後から入院、全身麻酔を施され、いちころで夢の中。手術は無事終了。麻酔から覚めてもボーっとしているところで、
「骨に金属プレートをあて、ビス8本打ち込みました。」
と、レントゲン写真を見せられてもピンと来ない。しかし、そのうち痛みが襲って来て、のたうちまわりながら、自分が手術したことを実感する。厄年、厄年、まさに本厄がこんなかたちで降りかかったわい。
翌朝、入れ替わり立ち代り、点滴やおしっこの管や計器を外しに来る看護師さん達から、
「本当にこれから帰るの。」
と、何度も尋ねられた。どうも私は、何もかも常識はずれの患者だったようだ。

プロ

ギプスでは靴を履けないので、足の型をとって特注した装具と言われる代物を右足に着けての春の作業は誠に不自由なものだった。それでも、周りの力添えを受けながら、6月上旬には、予定通り13ヘクタールの作付けを終わらせることができた。
そして、装具を外す頃には、田んぼの周りに電気柵を張り巡らし、続いては草刈りに、水管理に追われる日々が待っている。しかし、これがまさに過酷なリハビリの日々。一歩一歩が、まだたどたどしいのに、そこは畦道、石ころ道、平らなところが全く無いところを、傷めた足で歩く辛さ,格好悪さと言ったらない。世の中、平らなところがこれほど少ないとは思わなかった。それでも歩かないと仕事にならない。俺はこれで生きているんだから、歩かなければ…。
タイガースの金本選手は偉いもんだ。これで生きてますから、プロですからって、手の骨折れてても打席に立って、連続フルイニング出場記録更新中だぜ。格好いいのー。でも待てよ、俺だって手術日の1日休んだだけだぞ。まあまあ格好いいぞ。
しかしながら、仕事中、なにくそこれしきと、ぎりぎり歯を食いしばり過ぎたせいだろう、昔の虫歯治療の埋め物が、一時に3つも外れちまった。くそー、かっこわるー。