2006年 春
故郷の友は…
私はかれこれ12年、ここ20年でたったの3回、故郷に続く関門橋を渡っていない。この冬、不思議に、私の素晴らしき高校時代を思い出し、家族に話して聞かせていた…、そんな矢先、高校の剣道部の先輩・後輩から、突然電話が鳴った。故郷を離れてから波瀾づくめで、当時の剣道部の皆からは行方不明になっていた私を、1年後輩のT君が、インターネットを駆使して見つけ出してくれたことによるものだった。その後、方々にT君が私の所在を伝えてくれたおかげで、20年ぶりにやりとりできるようになった。まずは私から、皆々様へメールを送ってみた。
皆さん、長―かごと、ご無沙汰しましてすみまっしぇん。中津隈です。…略…、京都の綾部市で稲作農家になっとります。…略…、今年高校生になる息子の成長とともに、九州の懐かしき思い出が、食卓の話題に頻繁に上がるようになった今日この頃、まさに1月20日、T君から突然電話をいただきました。ありがとう、T君。インターネットで私の居所を調べてくれたそうで、本当にありがとうございました。Tとその日、一緒に博多で飲んでいたJさん、Rさんとも電話でお話しすることができ、感涙したたりました。
高校卒業後、私は……略……。
私の独り息子が15歳。只今、野球に夢中です。純粋でひたむきな少年と対峙するこの頃、タイムスリップできるなら、東筑高校時代をもう一度…、と思う頻度が多くなってきたなあ、と感じていた矢先の1月20日、Tからもらった電話は、まさにタイムスリップでした。その時、電話で話したT、Jさん、Rさん…、電話の向うで目に浮かんだあんたたちゃー、みーんな坊主頭ばい!
その後、Mことミセス・Hが電話をくれて…。それがくさー、Mの顔が電話の向うで思い浮かぶとよー。シワひとつなか色白の華奢な女子高しぇいのMの顔たいねー。あーーーー、うれしかーーーー。
もひとつ言わしてくれんね。Tとか、Jさんとか、Rさんとか、Mとかの話に出てくるあの人、この人…、これがまた、ぜーんぶ、ぱんぱん顔が浮かんで、涙が出てくるとです!涙の向うの顔がこれまた、坊主頭やったり、ブルマー姿やったりばっかりで…くさ、本当に嬉しかです。
思えば通じるものというのでしょうか?私にとっては、どこにいてもふっと目に浮かび、忘れ得なかった皆様。こうしてメールできることに感謝、感謝、感謝です。どうかいま一度、皆様もタイムスリップしていただき、中津隈を記憶に復活させてくださいませんでしょうか。
すると…、
Oさんから、
波瀾万丈のメールありがとうございます。 20年振りですか。 当方、……。
Mさんから、
ほんとにお久しぶりです。年末のJからの一本の電話で、ここまで盛り上がることになろうとは・・、
Jさんから、
Jです。計り知れない苦労があったようですが、持ち前の明るさ、学生時代から衰えることなく健在の様で、何よりです。1月20日の夜は、ほんとに会話できて感動してます。Tに感謝です。
Rさんから、
Rです。お米を作っているの?今、私は……、
ミセスHから、
ふるさとに対して食いつきたくなる気持ち、よくわかるよ。毎年帰省している私ですらそうなのに、隈ならなおさらだと思います。で、黒ちゃんのアドレスお知らせします。
等々、続々と返信。そして、私が返信、また返信。そして、同級の「黒ちゃん」に電話をしてみた。すると、なんと彼が、遥々綾部にやって来てくれたのだ。
その日は、朝からそわそわ、そして夕方駅へお出迎え。「おーー…。」もうたまらん。手を握ると顔が火照って、涙がこぼれかけた。我が家に着くなり、「懐かしかー、飲も、飲も。」「おー。」
飲んでは互いの近況を、飲んでは思い出を、あいつやこいつの近況を語って、笑って、美酒に酔いしれた。1泊・2日で、20年分語り尽くす事はできず、別れの時はすぐに来てしまった。
「九州、帰って来いよ…、次は九州で会おう。」
「おー、今年こそは帰るばい…。」
目が涙でいっぱいになった。
高校時代、私は彼の弁当を、しょっちゅう盗み食いして追い掛け回されたものだ。それでも、20年以上音信不通だった私のために、遠く訪ねてくれてありがたい。彼を見送ると、不覚にも長渕剛の「乾杯」を口ずさんでしまった。
♪ふるーさとのともーは、いまーでもきみーの、こころーのなかーにいまーすかー♪
涙が溢れる、もうとまらん、俺は幸せもんバイ。
翌日、息子が高校の合格通知を持って帰って来てくれた。
「お前も良い仲間に巡りあえ!」
さあ、春が来た。ディーゼル音高らかに、いざ出陣!
About 農樹
2006年 冬
仰木彬先輩
母校の先輩、オリックスの前監督・仰木彬さんが亡くなった。’05年のシーズン中、一度も神戸の球場に足を運ばなかったことが悔やまれる。前回監督を務められていたころは、イチロー対松坂の対決を見たがる息子を連れて、何度も神戸に通った。神戸の球場はドーム球場ではなく、美しい天然芝だ。その上を颯爽と3塁コーチャーズボックスに向かう、当時の背番号72が今も目に焼き付いている。そのシャキッと伸びた背中に「いっちょやったるぞ。」という静かな気迫を感じ、「せんぱーい、俺もやっちゃるばい。」と、駆け出し農民の私は呟いたものだ。
仰木さんの七変化ともいえるオーダーの組み方や、人をあっと言わせる采配ぶりを誰が名付けたか「仰木マジック」と呼ぶ。だが、私は、もうひとつのマジックがあると思うのだ。仰木さんが選手を管理したり、理論の詰め込みをしないのに、そのもとで育つ選手が次々と大成していったことこそ、マジックではないだろうかと思うのだ。
近鉄時代の野茂選手と仰木さんの会話。
「自分のフォームで長い間やってきましたから、それでやらせてください」
と、言う野茂選手に、
「まあ、いいだろう」
と。ついでに、
「調整には自信がありますから、好きにやらせてください」
と、言う野茂選手に、笑って、
「まあ、いいだろう」
と、仰木さん。しかし目だけは笑わず、
「結果を出してくれれば何も言わないよ」
と、ポツリと言ったそうだ。
また、オリックスの監督に最初に就任した時のこと…。その頑固さから、前任の監督に干されていた若きイチロー選手のことを、基本形とは違うが良いタイミングで打っている。面白いのではないかな、と思うようになり、また、妙な媚を売らず、マスコミの変な質問には、
「その意味はわかりません」
と、答えている姿に、
「こりゃ、おもしろい」
と、思ったそうだ。頑固で、それまで培ってきたものにプロとして、男としての思い入れがある。そんなヤツに、
「決して押しつけるなよ」
と、だけコーチに告げて、
「男は腕白ぐらいが、ちょうどいい」
と、ばかりに、
「よかよか」
と、九州弁を連発したそうだ。
いつも心が熱く、これぞと思ったことは徹底してやる。遊びもまたしかり。苦難にあっても、「どうも無かー!任しとかんねっ」と腕まくりしたがるのが九州男児。多くを語ろうとせず、その行動で自分の意思をを示すことが男の粋。無愛想で、誤解を招くこともあるが、噛み砕けば、無類の優しさとひょうきんさを持っている。そうそう、俳優・高倉健さんも我が先輩。火野葦平の「花と龍」や五木寛之の「青春の門」などの舞台が我らの故郷、血が滾る土地柄たーい。
仰木さんは、野茂や吉井、イチローにも田口にも…、自分が信じる価値観、もう変えることのできない自分自身をさらけ出し、その男気を示し続けたのだと思う。そして、懐大きく「あいつはやれるはず」。また、優しくも厳しく「やれてこそ男、結果を出せてこそ男」と、黙して語らぬ男・仰木に選手は惚れ、なにくそっと奮起・大成していったのだと思うのだ。
おー、質実剛健、侠気果断(母校の校訓)。入れ替えようのない熱い血が流れる父のもとで育まれている稲よ、息子よ、大成するんだぞ。
’06年のシーズンは、仰木さんを偲んで神戸に通おうと思う。
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2005年 秋
シルクロード
「パキスタン北部で地震」との報道を聞き、20年前のことを思い出した。
シルクロード陸路制覇の旅と称して、列車やバスを乗り継いで、中国の上海から、トルコのイスタンブールへ向かった時のことだ。その半年間の旅の半ばで、中国最西の町・カシュガルから、パキスタンの首都イスラマバード゙までの、思い出深い3週間、季節はちょうど今頃、秋だった。
陸路、中国からパキスタンへ抜けるには、カシュガルからポンコツの乗り合いバスで3泊4日、標高5,000mの国境を越えることになる。国境越えのバスがあるという情報だけを頼りに、遥々カシュガルにやってきたのだが、到着してみるとそのバスはちょうど出発したばかりで、次は1週間後に出るのだというから、辺境の地にふさわしい。急ぐ旅でもなし、安宿をとって、初の陸路国境越えを楽しみに待つことにした。
安宿の客は、パキスタン人が大半を占めていた。その中でも、一番陽気な一団と話すうち、それまで少々退屈な旅を続けていた私の心が躍り始めた。聞けば、彼らは畳1枚ほどの巨大なバッグを手に両国間を行き来している。日用品に工芸品、様々なものをバザールで買い求め、それに詰め、彼らの国の首都・イスラマバードに隣接する町、ラワルピィンディのバザールで売るのだという。そして、利益をもとに、今度はラワルピィンディで買い付けをして、カシュガルで売りさばく、のこぎりびきで儲けているわけだ。貿易とも言えるかと、さらに聞いていると、税関でバッグの中身全てを申告する訳ではないらしい。国境では顔ききや、袖の下を行き交うものの多少でバッグを開かせなかったり、検査官の目線をそらせることが大事だというから、いやはや、奴さんたちは密輸団なのだ。
彼らのすすめで、私はそれまで背負って旅してきた大型リュックの中身を全て捨てた。代わりにバザールで買ったシルクの反物を100m買って、彼らとバスに乗り込み、いよいよ5,000mの国境越えだ。
両国を結ぶ道は、カシミールハイウェイと呼ばれているが、それは名ばかりで、砂漠地帯を抜けてから先は、岩肌剥き出しの山道となる。もちろん、舗装などされてない。それにもかかわらず、かの地のドライバーは、ブレーキペダルに足を置くことなく、まっしぐらだ。車内は、悲鳴にうめき声、激震が続く。40人の乗客に合わせて、屋根の上にまで膨大な荷物を載せたバスが、30分間以上ジャンプを繰り返しながら暴走するのだ。登っては下り、下っては登り、食事休憩でバスから下りても食が進むものは誰もない。激震の連続で内臓も踊っているからだ。
断崖はさらに危険だ。岩肌の路面には大きな凹凸があるので、前後左右に大揺れする。谷側に揺れようものなら車内に絶叫がこだまする。そして、いよいよ運転手が特に危険と判断したら、乗客を下ろして歩かせ、その後ろをバスがついてくる。バスが動けなくなると、我々乗客がそれを押す。その数百メートル前方では、ダイナマイトの爆音が鳴り響く。カシミールハイウェイは建設中である…。
国境では、勝手知る彼らの手引きと、「通関の時、決して荷物を重そうに担がないように!」というアドバイスのおかげで、リュックの中身を検査されることもなく通過、パキスタンに入国した。そして、この国最北部の山里まで下ったところで、先を急ぐ彼らとは、イスラマバードの連絡先を書き込んでくれたメモを貰って別れた。この地域は、見上げれば、万年雪をいだいた数千メートル級の山々に囲まれた村が点在する。美しき山々に囲まれた村をひとつ、またひとつと、ミニバスを乗り継いで訪ね歩くのは楽しみだ。イスラマバードまでは、のんびり行こう。
久しぶりの穏かな旅、氷河で道草をくうなど、気ままに村から村へと下って行く。すると、いくつ目かの村に、すでにイスラマバードにいるはずの彼らがいた。そこから次の村までの距離は30km。その途中で崖崩れが起きて、ミニバスは不通、復旧の見通しは無いのだと言う。歩いて行けないことはないが、ご覧の通りの大荷物を抱えて自分たちだけでは歩いていけないので、ここに人が溜まるのを待っていたのだそうだ。旅は道連れ、世は情け、ミニバスで乗り合わせここまで来た者と、彼らともども、大荷物を一緒に抱えて、歩きに歩いた。崖崩れの現場を越え、次の村までもう少しのところに差し掛かったとき、彼らの中の一人が私の担ぐリュックをとんと叩き、「これぞ誠のシルクロード」と、叫んだぶと、笑い声に湧いた。
その後、シルクの反物はラワルピィンディのバザールで10万円以上の値で売れ、8万円ほどの儲けになった。米ドルで得たこの金は、それまで宿代を含めて1日当たり500円程度の貧乏旅行を続けていた私には、大きな糧となった。イランに入国する前に、闇両替で換金すると、隠すのに困るほどの大きな札束になった。気も大きくなり、首都テヘランでは、この貧乏旅行中、最大の贅沢に興じた。宿はヒルトンホテル、特大ステーキにワインの夕餉だ。
神様
イスラマバードへ向かう道中、出会うパキスタン人の多くから、「お前の宗教は?」と、尋ねられた。当時の私は、宗教や信仰というものを自分なりにとらえたことも無く、別世界のものだったから、その時の気分で、「ブッディスト」か「クリスチャン」と、適当に答えていた。しかし、こちらが好感を持つ相手から、同じように問われると、まじめに答えようとして言葉に詰まる。ある時、言葉に詰まると、問いかけた青年が、
「よし、お前がビルの屋上にいるとする。そこで何物かに不意に突き落とされるその瞬間、お前は何を思う?」
「…、…」
そして、
「助けて!と思うだろう。そう、その先に神がいるんだ。…英語解らず、略…。救いを求めたり、手を差しのべたり、感謝したり、何かを信じる心の先に神が居るんだ…、…英語解らず、略…略…、」
私は、内心、「俺は英語が苦手っちゅうのに、べらべら、まき舌で喋らんでくれんやろか?こっちは言うとること半分も解らんとよ。」と、思いながらも、そのあと気づいたことがある。日ごろ、私は海や山、空を眺めつつ、相談や感謝といった、その時々の語りかけを、知らず知らずにしていたことを…。今でさも宗教・宗派を問われて答えられはしないが、見つめる海、山、空などの、その先に亡き父母がいて、私は日々のことや、将来ことなどを相談したり、救いを求めたり、そして、ありがとうと語りかけている。あの青年が語ってくれた、広い意味での「信仰の心」は、自然ななりで持ち続けているのだ、と。
もうすぐ秋祭り。私は私なりの、心の中の神様に、感謝の気持ちを込めて、今年また太鼓を打つ。
About 農樹
2005年 夏
余計なこと その1
春は田んぼ毎の作業やその準備、田植え後の生育管理など、仕事が錯綜するので、うっかり忘れていたということが無いように神経を張り詰めている。大袈裟に言うと、時には脳みそが膨張してきているようにさえ感じるくらいだ。そんな時こそ、ひと息飲み込んで、落ち着いた行動をとるようにしなければ、機械の故障や事故に繋がる。
この春先は、雨や雪が続いたせいで、肥料撒布や荒起しにほとんど手がつかず、やきもきさせられもしたが、トラクターをもう1台導入し、助っ人を頼んだおかげで、作業の追い込みが効いた。1日当りの作業にゆとりを持たせることができたことが、作業ロスを少なくして、大切な初期生育の期間に十分な管理ができたと思う。苗作りについても然り。春先の低温で、一部発芽不良をおこしたが、概ね可も無く、不可も無く、3600枚のうち、処分したのは100枚程度。これくらいなら良しとしよう。
ただし、余計なことが生じてきた。ヌートリアがたくさん出現し始めたのだ。知る人ぞ知る、体長40〜50cmの水生動物、ヌートリア。姿はネズミとビーバーの中間くらい、と表現すれば良いのだろうか。水面をすいすい泳いでいる姿は、何とも愛くるしい。しかしながら、こいつが誠に厄介で、悪いことしやがるやつで、稲を食らうのだ!
田植えしたばかりの生育初期は、田んぼの見通しも良く、農道から100m先まで水があることを確認しながら通り過ぎるものだが、「ん、んー?」、どうも様子がおかしい…。トラックから下りて、向こうへ歩いて行ってみると、植えたはずの苗が、2a程度無い。続きの田んぼも見てみると、部分的に苗が無くなっている。「ん、んー。」次ぎも、また次もと、被害を受けた田んぼを見ているうちに癇癪を起しそうになった。昨年来、イノシシに悩まされ、田植えが終わってひと息ついたら、やつらに電気ショックを与える電気柵を張り巡らすつもりでいたが、まだ田植えが残っている。田植えの手を止めるわけにいかない、どうしたものか…?
すると、73歳になる専業農家のおっさんが様子を見に来てくれた。「ヌートリアはのぉ、あほたれやで同じとこを通るんじゃ。おー、ここ、ここ、ここが通り道じゃ、ここに罠を仕掛けーや。」「おっ、ここが巣穴じゃ、ここも罠仕掛けとけ。」と、罠を仕掛ける場所を見繕ってくれた。
こうなると居ても立ってもいられなくなるのが私の性格。おっさんに罠を借りて、所定の場所に仕掛けると、翌日には獲れていた。それからというもの、また獲った。罠を買っては仕掛けて、また獲った。追加発注して、仕掛けて、またまた捕った。ついでにイタチまで獲った。「どーだ、見たか、参ったか!俺の執念の勝利たい!」
私は農民、猟師ではない。あー、余計なこと。
余計なこと その2
先の罠の話。通称「カッチン」。鉄バネで鉄の輪を開いて、ピンで固定して仕掛ける。獣が触れると、固定ピンが外れて、バネが弾け、鉄輪で足を挟んでしまう仕掛けになっている。これが今時は、動物愛護団体やその手の奥様たちから、動物虐待だとか言って、非難を浴びているらしい。ホームセンターには売って無いので、さもあらんと、金物屋に行ってみるが、無いと言う。贔屓にしている農業資材屋も言葉を濁す有様だったので、私の癇癪玉がはじけた。資材屋の若旦那に、「あんたの客は、都会で涼しげにティーしとる有閑マダムか、それとも俺か?百姓が困った挙句、殺生も厭わず。そんな気になっとる今この時、あんたは、カッチンなんか売ったら非難されんやろか…、なんてなこと考えとんか!鉄砲持って来いって言うとるわけじゃあるまいし、俺が、あんたとこから買うたって、世間に言わずに使えば済むことやろ。さっさと持って来んかいー!」
若旦那は、飛んで帰って、仕入れて持ってきた。仕掛けると、また獲れるわ、獲れる。成果があまりに顕著に現れるものだから、私の顔も知れぬうちににやけて歩いていたのだろう、「くまさん、獲ったんか?」と、近所のおっさん達。「わしも仕掛けたいんじゃけど…。」、「わしもなんじゃ。」、「わしはのぉ、巣穴みつけとんじゃぁ。」、「くまさん、後で金払うでなあ、わしらの分も仕入れてぇなあ。」と、せがまれ、何度も例の若旦那に追加発注をすることに…。物が届くと、その都度私が代金を立て替え、おっちゃん達から集金してまわるはめになり、あー、余計なこと。
しばらくして、例の若旦那と出会った。
「カッチン、どうや、よーけ売れて。」
「はい、なかつくまさん、ありがとうございましたっ!」
「儲けも無しで、カッチン配って、集金するのも大変よ。」
「ありがとうございましたっ!お世話になりましたっ!なかつくまさんっ!」
「それでさぁ、おっさん達には、これから先、あんたのとこに直接頼めって言うといたぞ。」
と、言ったとたん、若旦那の口は半開きになり、
「あっ、りがとうございます…、なかつくま・さ・ん」
と、言うのがやっとだった。
「ははははは。」
ケモノ襲来
次ぎ次ぎに罠を仕掛けて、稲を食らう憎きヌートリアを獲りまくっていると、別の地区では、アライグマどもがヌートリアと同じことをやっていた。軽トラを降りて、田んぼの向こう側へ向かってみると、まあ見事な禿げ、禿げ、禿げ…。怒りの次に闘志が湧くと、若旦那に連絡をとる。
「おーい、カッチン10個持って来てー。大至急!」
それにしてもヌートリアに、アライグマと、可愛い顔していながら、やることはえげつない。人間にもそういうのがいるが、そんなのばかりでもない。しかし、やつらは皆が皆、全員えげつない。くっそー、どこのどいつだ!こんな連中をわざわざ海外から連れてきやがって。見つけ出して火あぶりにしてやりたいものだ。
そうこうしてたら、いよいよイノシシ達がやって来始めた。今度は不細工な顔してえげつないやつらだ。小さな畔ならひっくり返し、堅い大きな畔でもえぐって食い物を探す。田んぼの中を走っては稲を踏み込む。そして稲穂が実り始めるとそれをしがみ、しまいに田んぼの土に体をこすりつけるようになるから、やつらが来はじめたら、必ず対処しないと、収穫ままならないほど、無茶苦茶にされてしまうのだ。
まずは2エリア、約3.5haを対象に電気柵を設置した。4〜5mおきに支柱を立て、1本の支柱につき碍子を2個ずつ取り付ける。碍子から碍子をニクロム線が入った細いロープで結んでいき、ここに5,000ボルトの電流を流して、悪さをしに来るイノシシに、電気ショックをくらわせるという仕掛けなのだ。その距離1,300m、支柱の数350本、碍子の数700個、電線総延長は2,600mの大仕事だったが、効果は絶大。田んぼのまわりにイノシシの足跡はあるが、電線の内には入っていないようだ。そればかりか、ここでバッチーンと痺れたに違いないと思われる、のた打ち回ったような痕跡もあり、毎朝そんな場所を探すのが楽しみになった。
これでケモノの難を逃れた、と思っていた。しかし、一難去ってまた一難。あっちにも、こっちにも、川向こうの田んぼにもイノシシはやって来た。もともと、先日電気柵を施した約3.5haは、イノシシ出没危険区域だったから、設置を計画していたが、計画外のことは起こるものだ。こちらで追い払えば、向こう…、向こうで追い払えば、そのまた向こう…と、あー、イノシシ相手にイタチごっこときたもんだ。結局、あと3エリアに電気柵を設置。合計してみたら、面積にして7ha超、距離3,000m、電線総延長は6,000mだ。今時の農業は、ケモノとの戦いなのである。
最後のエリアには、私だけが電気柵を設置してしまうと、おそらく次ぎに狙われるであろう、他家の田んぼがあったので、その家のおっちゃんにも、一緒に電気柵で田んぼを囲ってはどうかと声をかけると、ふたつ返事で話しにのってくれた。非生産的な作業ながらも、「くまさん、声かけてくれてありがとう。」と感謝されると、重くなりがちな気持ちも救われる。作業終了、差入れのスイカを食べ、食べ、
「罠に電気柵に、今年俺が払ったケモノ対策代は50万円よ。」
「ごっついもんじゃのー。」
「来年から、米作りは縮小して、獣害対策稼業でも立ち上げようかって思いよるんやけど、どーやろか。」
「そのほうが堅い稼ぎやろな。」
と、いった冗談を交わして、運命共同体は帰路についた。
翌早朝、そのおっちゃんから電話があった。
「くまさん、電気柵飛び越えてなあ、今度はシカが入りよった〜。」
朝飯もそこそこに、田んぼに急行し、おっちゃんとため息つきながら、もう1段上に電線を1本張った。
「はあー。昨日、よこしまなこと考えたバチやろか?」
「そうかもなあ。」
ええーい、ここは動物園か?!
About 農樹
2005年 春
独りじゃないということ
今年の春作業も終盤、あと4〜5日で田植えが終了できるという時、北海道は旭川から訃報が入った。21年前鳥取で知り会って以来、私を弟のように良くしてくれたそのご夫婦は旭川出身の奥さんの病気に伴い、数年前から故郷に戻っていた。私にとても逢いたがっていたが、こちらの農繁期のことを気遣い、悪化する病状を連絡せず病気と闘っていたと聞き、私はすぐに飛びたい気持ちを抑え、最後の田植えを片付けてから旭川に向かった。家に到着すると、ちょうど初七日の法要が始まるところだった。
鳥取に居た時分、親からの仕送りが無く、講義の合間にヘルメットと長靴を抱えて土木現場で働く貧乏学生、学費滞納の常習犯だった私は、大学2年の時、タダ住まいできる下宿に在りついた。そこは繁華街のど真ん中、飲み助の私は、「下宿代が浮いた分は飲める」とばかり、ある居酒屋に通うようになった。そこは開けっぴろげで気さくな夫婦が経営する小さな店で、ご夫婦の人柄同様に常連さん達がこれまた楽しく誠に居心地良く、夜になるとつい足が向いてしまっていた。しかし、いかに居酒屋でも貧乏学生が毎日通えるはずも無く、私がお代を支払ったのは僅かな期間。そのうち、「今日はツケに…」と言って帰っていたのが、「今日も…」となり、しまいには、「くま、金のことは考えんで毎日来い。」と言っていただいたのを良いことに、私は卒業まで見事に皆勤した。年齢差はさほど無いのに私達は「お父さん」、「お母さん」と、そして「くま」と呼びあい、心通わせあい、ともによく働き・学び、ともに遊び、全てのことに全力で貪欲な青春の日々を謳歌したものだ。
その「お母さん」が逝ってしまった。私が、稲作シーズン中は、2日と家を空けたことがないことや、毎年田植えが終わると1日や2日寝込む事を知っている「お父さん」は、「会いたかった。でも、田んぼは大丈夫か…、」と。
それから48時間、僅かに仮眠をとりながら2人で語り合った…。独りで生きるなんてつまらない。人は所詮弱いな…。しかし、支えあって、前を向き合っていると、ベクトルが生まれる、ドラマが生まれる。そうして生きてきたもの、独り残されたわけじゃないさ…。「お母さん」の葬儀にはタツ、タメ、アカギらが駆けつけたそうだ。私が帰った後には、ノビやユキチが来るという。他の面々もまた都合をつけ、順番に旭川に来ると言ってくれているという。鳥取にあったあの店に代々「居ついて」は巣立って行った私の後輩達だ。49日まで、誰かが家に上がり込み語り合ってくれるだろう。この先のこと…、独りじゃないから、Don’t worry, Be happy.と、思いたい。
北海道から帰ると、6月は大渇水。ひと息つくこともなく、田んぼの給水に駆け回る。7月にようやく雨が降ると、畔草が手加減なしに伸び始めた。