2005年 冬
クリスマスパレード
1997年から続けている、クリスマス・イブ恒例のトラクターパレードは、その前年の悲しいクリスマスに端を発している。
泣く妻を説得して、脱サラ新規就農したものの、就農2年目、’96年のクリスマスには、息子が望む電動のゴジラのおもちゃが、けちなサンタクロースが、モスラの下敷きを届けるありさま。悔しくて、情けなくて、言葉にならなかった。
‘97年、生活に少しだけ灯りが見え始めて、息子を喜ばせたい、そして、前年の憂さを晴らさん、と始めたものなのだ。農家の象徴とも言えるトラクターをトナカイに見立てて角を取り付けて走る。牽引するトレーラーには、思い思いの「造り」を施して、クリスマスソング高らかに物部地区中を駆け回る。
年毎に山車製作やコース取りに試行錯誤し、パレードで起こるハプニング、ドラマ、思い出を重ねるうち、小さな響きは共鳴を生み、恥ずかしそうに遠巻きに見ていた妻や子が、そしてあの人が、ひとり、またひとり加わりこのパレードの虜となって、去る12月で8回目を数えた。
新加入したメンバーは、パレードが終わると必ず、「パレードを見ていた時と参加した時の違い」や、「あれほどまでに、サンタクロースが楽しそうにしている訳」がよく解ると言う。見る側にいた時、パレードに遭遇するのは、地区毎に決めた停車場所でのわずかな時間。立場変わって、それをやる側になると、パレード全行程3時間の中で、停車場から停車場までの、その道中こそが、パレードの真骨頂なのだ。
物部営農センターから白道路へ向かう道、何北中学校付近、西坂から新庄へぬける峠道。これら真っ暗闇を駆ける時、連なる山車はうねりながら一層輝きを増す。前方にいるサンタクロースも、後方にいるサンタクロースも、連なり重なる輝きに、いろいろな想いを馳せながら笑っている。
寒いと言っては、運転するサンタクロースに、気遣い構うこともなく酒をまわし飲む不良サンタクロースあり、肝心の蛍光灯を叩き割ってしまうおっちょこちょいサンタクロースあり。乗り降りの際に、こけて頭を強打する、どじなサンタクロース。コースを間違って、あらぬところへ走っていくマヌケなサンタクロースと破茶滅茶なサンタクロース達は、互いの関係を再確認しながら、そしておらが村を再発見しながら次の停車場へと進む。
「次も大勢待っててくれるかな?」と、期待と不安を乗せて走る向うに、待つ人、人、人。「メリークリスマス!」世界にサンタクロースが、これほどはしゃぐクリスマスは無いだろう。いつまで続くか、このパレード。差し当たり、2005年もやりましょか。
友が来た!
友遠方より来る、これ楽しからずや。2月の末に、岐阜の山奥から親友がやって来た。私と2歳違いの彼は、私と同じく、1995年に脱サラ就農した、本年農民11年生。
営農分野は稲作、家族構成は妻と子1人…と、全てが似通っており、体育会系の大酒飲み、と来れば当然のごとく、出会った瞬間から意気投合しようというもの。
お互い、まだ百姓駆け出しのころ、東京で開催されていた減農薬・無農薬・有機稲作の研究セミナーに足げく通っていたとき、会場内でニアミスを繰り返していた時期があったようだが、その後、セミナーなどに通うこともなくなった頃、知人からお互いを紹介され、付き合うようになった。
毎年田植えが終わった初夏と、そろそろフィールドに意識を向けていこうとする冬の終わりに、お互いの家を行き来している。出会うば深夜まで、そして早朝から、寝る間を惜しんで差しつ差されつ、盃片手の会話は弾む。互いのカミさんと子供も「くまさん」「やまちゃん」と諸手を上げて歓待してくれるものだから調子づくというものだ。営農や経営の話はもとより、村のこと、家族のこと、それぞれの生い立ちや将来への想い等など、決して気取らず、正直な気持ちを話せる家族同士は何とも心地良いものだ。
何度出会っても話題にこと欠かないのは、お互いが前向きに生きている証し。その前向きさや明るさ、誠実さが相乗効果を生み、次ぎに会う半年先までの活力になる。幸せな親父同士は決まって、「元気充填!また会う日まで頑張ろう!」という気に満ち満ちながら別れる関係だ。
3年前から、彼もまたクリスマスパレードを地元でやるようになった。向うはこちら以上に小さな集落とあってギャラリーよりサンタクロースの人数が勝っているという。
さあ、春はそこまでやってきた。また逢う日まで頑張るべ。
春が…、
彼と別れると春がくる。彼と充填した元気を出力していく時期がやって来る。
人それぞれ、ふきのとうであったり、春一番や、桜であったりと、春の訪れを感じる素材はまちまちだろうが、私は物の動きで春が来た…、来てしまったと、毎年感じるようになった。シーズン到来を前に、肥料や育苗の土が入庫してくる。それぞれが、何百と積み上げられる山を見ると、ぞっとする。「まずはこの山潰しか。いよいよ、だ。」嫌でも鈍った体に鞭を打たざるをえない。心の充填は済んでいても体は思う様に動かない3月。
田んぼへ出て行くにはまだ早い。農業機械のメーカーから、お誘いがあったので大規模な展示会に出かけてみた。乗り合わせのバスを1台出すとのことなので、当日の早朝、集合場所に行くと、我が家の担当者である、やっさんがバスへと案内してくれた。どうも私が最後の乗客だったようで、「遅くなりました」と、乗り込んでぎょっとした。私に向いている顔の平均年齢が極めて高い。平均年齢などと言えたものでない。40歳の私を除くその顔ぶれたるや、ぜーったい、65歳以下の顔が無い。支店の従業員数名と私を除いた乗客で平均年齢を算出しようものなら、間違いなく70歳を超えてしまうのだ。
バスの中では、メーカーの連中が話し相手になってくれたものの、その話しの内容が、寒々しい。「去年の台風で、機械が水没したお客さん達、これまで機械が動くうちは農業続けてきたけど、今さら更新してまで農業は続けないとさ。」、「もう農業辞めんべっ、て人が結構あってね。うちもお客さんをかなり無くしたのよ。」と、いった話ばかりだ。
日本には、毎年必ず春が来る。果たして、寒風吹き荒れる日本の農業界に、春がやって来るのだろうか。前向きな男ふたりくらいでは、春風を吹かせそうにもないなあ。
About 農樹
2004年 秋
台風がやって来た
今年は、農家にとって酷な年だった。春先の異常な暑さと乾燥。梅雨明け前後の少雨などはその序章。各地の水害、あちらこちらに上陸する台風が、8月末、ここにもやってきた。台風16号の突風で、ビニールハウスのビニールが破られた。ビニールハウスはどこかに風を含む場所があると、めっぽう弱い。次々と上陸してくる台風の対策として、いったん稲刈りを中断して、ビニールを全て取り去り、骨組みだけにしたから大丈夫。
次の17号は大陸へとぬけたものの、すぐに18号がやってきた。発生当初は、17号同様、大陸へぬけると思いきや、16号と同じコースをたどるらしい。16号なみの備えをして、台風が過ぎるのを待ったのだが、どうして、どうして、強烈。乾燥場外側に設置してある集塵装置が吹っ飛んだ。籾殻を貯留するビニールハウスが吹っ飛んだ。おまけに、中に貯めてあった籾殻も吹っ飛んだ。尋常な量でない我が家の籾殻が、ブリザードのように舞う。「やばい、明日は菓子折抱えて、町内頭下げて回らないかん…」、と思った矢先、集塵装置が吹っ飛んでいるから、乾燥場の建物内部に烈風が吹き込んでいる。私は飛んで行って盾となり、手探りで板とつっかい棒を探して難を逃れたものの、あー、生きた心地がせんばぁい。台風に慣れっ子、北九州育ちの俺もたまらんばぁい。
翌早朝、いろんなものが吹き飛んでいた。我が家は例のビニールハウスのビニールとその間口、そして集塵装置。被害総額50、60万円といったところだろうか。まだ、これは序の口。世間では建設中の鉄骨の建物が、20mほど飛ばされていたのを始め、倉庫の軒先がふっ飛んでいたりと猛烈な台風の爪あとが残っていた。
稲は大丈夫だろうか?順番に田んぼを見て回ると、見事に南から北に向かって稲が倒れかかっている。稲の倒れ具合を、ボクシングに例えて表現すると、カウント・テンはぶっ倒れて起きあがれない状態。稲穂がべたりと土にくっついて、参りましたと言っているかの様。これだと、えらいこっちゃ、と慌てなくてはいけない。早く稲刈りを進めないと、発芽したり、腐ったりしてしまう。
そこへきて我が家の稲は、カウント・セブンからナインの間で持ちこたえていた。「はー、やれやれ。」そして、「うちの稲は大したもんだ」と感心もしたが、その後の稲刈りはかなり手間取った。
そして、また10月16日と17日、我が物部諏訪神社の秋の大祭が開催された。岸和田のだんじりや博多の山笠のように「動き」や「迫力」あるものとは違い、霧深いここの気候を映し出すかの様に静かで古式ゆかしく、囃しに合わせ大名行列が練り歩くというもの。今年も私は囃し方の太鼓打ち。荒れた年ながら、どうにかこうにか収穫の秋を終えることができた、その感謝の念を奉納をした…、つもりだったのだが、またまたやって来ました23号台風。
近所の犀川は異常増水し、町内所々が浸水したため、数時間ばかり避難所で過ごすはめになった。幸いにも町内は、大きな被害からは免れたものの、私が役員を務めている潅漑用ため池は、激しい漏水に堤体の陥没と、決壊の危機にさらされ、今も警戒中。当分ここを離れられそうにもない。
「申(さる)、酉(とり)荒れて…、と昔から言うてなぁ、」とは老農夫の言葉。来年の干支は、酉…。また荒れるのだろうか、神に祈るのみ。
就農10年、そしてこれから…
’95年、40aの田んぼと5aの畑で農業を開始。しかし、早速やってきた生活苦。
米に野菜、日銭稼ぎに売れるものは何でも売った2年目。漬物やうどん、菓子など作っては売り歩いたが、この年、息子に届いたクリスマスプレゼントは、モスラの下敷き1枚。
’97年、一代奮起して物部町に移った3年目は田んぼが1.7ha。藁をも掴む思いで作ったパンがよく売れた。3人家族の生活に、小さな灯りが見え始め、嬉しくて、嬉しくて、その嬉しさを弾かせたい、息子を喜ばせ、前年の憂さを晴らしたいと始めたクリスマスのトラクターパレード。
農業機械を買い揃え始めた4年目、’98年。小さな物から大きな物まで次々に買っていった。いつの日か、ライスセンターを建てようと、裏の田んぼを買い、造成した5年目、’99年。
作付面積が急増する中、夢のライスセンター建設の計画をすすめ、ようやく融資にこぎつけた7年目、’01年…。そして遂に完成、その秋には稼動、感涙した。
8年目には、作付面積8.5ha、9年目は9.5ha、10年目には10ha超を作付けするようになった。
よそ者新規就農者の荊棘の道も、歩むうちに岩肌の道が、土道、そしてそれが砂利舗装となり、未だ曲がりくねってはいるけれど、ようやくアスファルト舗装の道を歩んでいるかのようになってきた。
次ぎの10年は、真っ直ぐなハイウェイを駆け抜けるようになりたいものだ。
About 農樹
2004年 夏
照りつける太陽
温暖化のせいか?
稲は生育良好だが
人間様にはちときつい
開いた口が閉まらない
気が狂いそうになるくらい暑い夏、午前8時。田んぼの見まわりや草刈りの移動中、府道添いの電光掲示板の気温表示はすでに33℃。11時には36℃。もうこれだけで嫌になる。「こんなところで草刈りしてたら体に悪いから、また明日…。今日は水当てだけやっておこう。」などと言っていると、草刈りがいっこうに進まない。田んぼが干割れてくると水も先へ進まない。「6時ごろから水を入れ始めたから、もう向うまで行きついたやろ。」と思い歩いてみるが、まだ水は行き着いていない。「この暑さの中、俺ってどれほど歩くんやろか。田んぼの短辺プラス長辺で1枚あたり100m〜150m、1日平均10枚を2回歩いたとしても3㎞。いやいや、平均10枚ってことはないぞ。その程度で終わってないな。」と考えながら、引き返していると、老人が農道を歩いている。もともと体に潤い分が少ない老人だから、午前中の一仕事を終わらせると、汗は出尽くして、スルメのような姿で口を開けて歩いている。「早よ帰って休んでよ。」と声かけると、「おおきにぃ」と返すのが精一杯の様子。「こんだけ暑いと口も閉まらんわい。」と思いつつ、私もまた、ふらふらと歩き始めると自分の口も開いていることに気が付ついた。
昔の夏は、こんなに暑くなかったはずだ。
雨よ振ってくれ
誰も水が欲しいのだ
我田引水
この夏、ただとび切り暑いだけではなく、雨が降ってから次の雨までの期間が長い。そうなると田んぼ入れる水を、耕作者同士が取り合いになる地区が出てくるものだ。
そんな地区の中の、ある私の田んぼにどうしても水が当らない。私より二枚上の田んぼを耕作するおっさんが水を横取りしてしまうからだ。
田んぼに水を引くにもルールがあって、常時水が流されている主水路から水を分けるのは耕作者の役目。言い換えれば、分水されてそこに来ている水は、自分の田んぼの前を流れていても、誰かがそこまで引っ張ってきた水なので、断りなしにとってはいけない。しかし、どこにでもこんなおっさんがいるもので、自分の田んぼの前の水路に水が流れていれば盗りたがる。田んぼに水が満々とあろうが、よその田んぼが干上がっていようが構わず入れたがる。私がいくら入れようとしても、2枚上で水路をせき止め、1週間以上、水を入れかけては盗られのイタチゴッコの末、辛抱強い私もたまりかねて、エアコンが効く2トンダンプを物陰に停めて見張りをすることにした。
この日は、他の仕事をするつもりはまったく無い。見張りあるのみ。トラックの中ですることもないので、冷たい缶ビールを飲みながら見張っていると、2本目を飲み干すと同時にやってきた。嫁さんを軽トラの助手席に乗せて、田んぼの前に止まるや、嫁さんが駆け出て水を盗る。そして、盗るやいなや、嫁さん素早く亭主の軽トラに乗り込み姿をくらますという戦法だ。
「ヨーッシャー、まんまと引っかかりおったな、ねずみ小僧め!」、とばかりに勇んで、物陰からガラガラゴーとディーゼル音高らかに発進したら気付かれた。おっさん一目散に逃げる、逃げる。こら待たんかい、と追いかける。「ひとことガツンと注射を打ってやる。」約1キロのカーチェイス。僅かな時間だが楽しいことこの上ない。おっさん夫婦の慌てた様子が後ろ姿に見て取れる。「こりゃぁ相当うろたえとるなあ。」
僅かな農道カーチェイスだったが、軽トラの勝利。我が2トンダンプは敗北。逃げられたわけだが全然悔しくない。「まっ、いっか。農道で2トンダンプの不利は承知の勝負だ。はっはっはー。なんせこっちはゲーム感覚だ。ビール飲んでたら良い仕事ができた。はっはっはー。ここは農道、道路交通法も関係無かろ。はっはっはー。」
イノシシがやって来た
近年、イノシシや熊が人間様の縄張りを侵してきている。私の田んぼにもやって来て、稲を踏みにじる。
つい最近まで人間様は山へたき木を採りに、炭焼きをしに、また山菜を採ったりと、植林や伐採にと獣たちのすぐそばまで行って、縄張りを示していた。獣たちにしてみれば、散歩の途中に見かける2足歩行の、つるんとした顔の気持ち悪い生き物をもっと警戒していただろうに、今やその生き物たるや、昼間は会社とやらに行くようになると、夏はクーラー、冬はストーブとやらにあたり、元気に野山を徘徊しなくなった。獣たちは、人間の種としての衰えを察知して山際からじわじわと攻めて来ているのだ…、と思うと、口惜しい。
大事に育てている稲を守るために、金をかけて田んぼの周りにイノシシよけの電気柵をはるのが、手っ取り早くて確実な方法だろう。しかし、ひねくれ者の私には、すぐにそれへ走ってしまうのは、どうにも口惜しいものである。まるで敵を見るやいなや、城にたてこもる腰抜け侍のように思えてならない。今年はぐっと堪えて、イノシシと知恵くらべしてやろう!と決め込んだ。
そこで考えたのが発光灯、ディーゼルエンジン音に立小便。イノシシの視覚と聴覚と嗅覚に人間様の存在を知らしめる作戦。やつらに狙われた田んぼは2ha。これらに夜間の工事現場などに見られるピカッ、ピカッと光る発光灯を20本。ガラガラと音をたてるディーゼルエンジンを抱えた耕運機とバックホーを毎晩運転。そして、香りたつ我が放水マーキングを続けること30余日。ついに被害というに足らぬ程度で収穫にこぎつけることができた。
しかし、これほど手間ひまかけて、やつらとの知恵比べには勝ったと言えるのだろうか。あの手、この手と、もうへとへとだ。ああ、もう今年限りだ、こんなことは。
来年からは電気柵はって篭城だ。その費用20万円也。