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2005年 秋
シルクロード
「パキスタン北部で地震」との報道を聞き、20年前のことを思い出した。
シルクロード陸路制覇の旅と称して、列車やバスを乗り継いで、中国の上海から、トルコのイスタンブールへ向かった時のことだ。その半年間の旅の半ばで、中国最西の町・カシュガルから、パキスタンの首都イスラマバード゙までの、思い出深い3週間、季節はちょうど今頃、秋だった。
陸路、中国からパキスタンへ抜けるには、カシュガルからポンコツの乗り合いバスで3泊4日、標高5,000mの国境を越えることになる。国境越えのバスがあるという情報だけを頼りに、遥々カシュガルにやってきたのだが、到着してみるとそのバスはちょうど出発したばかりで、次は1週間後に出るのだというから、辺境の地にふさわしい。急ぐ旅でもなし、安宿をとって、初の陸路国境越えを楽しみに待つことにした。
安宿の客は、パキスタン人が大半を占めていた。その中でも、一番陽気な一団と話すうち、それまで少々退屈な旅を続けていた私の心が躍り始めた。聞けば、彼らは畳1枚ほどの巨大なバッグを手に両国間を行き来している。日用品に工芸品、様々なものをバザールで買い求め、それに詰め、彼らの国の首都・イスラマバードに隣接する町、ラワルピィンディのバザールで売るのだという。そして、利益をもとに、今度はラワルピィンディで買い付けをして、カシュガルで売りさばく、のこぎりびきで儲けているわけだ。貿易とも言えるかと、さらに聞いていると、税関でバッグの中身全てを申告する訳ではないらしい。国境では顔ききや、袖の下を行き交うものの多少でバッグを開かせなかったり、検査官の目線をそらせることが大事だというから、いやはや、奴さんたちは密輸団なのだ。
彼らのすすめで、私はそれまで背負って旅してきた大型リュックの中身を全て捨てた。代わりにバザールで買ったシルクの反物を100m買って、彼らとバスに乗り込み、いよいよ5,000mの国境越えだ。
両国を結ぶ道は、カシミールハイウェイと呼ばれているが、それは名ばかりで、砂漠地帯を抜けてから先は、岩肌剥き出しの山道となる。もちろん、舗装などされてない。それにもかかわらず、かの地のドライバーは、ブレーキペダルに足を置くことなく、まっしぐらだ。車内は、悲鳴にうめき声、激震が続く。40人の乗客に合わせて、屋根の上にまで膨大な荷物を載せたバスが、30分間以上ジャンプを繰り返しながら暴走するのだ。登っては下り、下っては登り、食事休憩でバスから下りても食が進むものは誰もない。激震の連続で内臓も踊っているからだ。
断崖はさらに危険だ。岩肌の路面には大きな凹凸があるので、前後左右に大揺れする。谷側に揺れようものなら車内に絶叫がこだまする。そして、いよいよ運転手が特に危険と判断したら、乗客を下ろして歩かせ、その後ろをバスがついてくる。バスが動けなくなると、我々乗客がそれを押す。その数百メートル前方では、ダイナマイトの爆音が鳴り響く。カシミールハイウェイは建設中である…。
国境では、勝手知る彼らの手引きと、「通関の時、決して荷物を重そうに担がないように!」というアドバイスのおかげで、リュックの中身を検査されることもなく通過、パキスタンに入国した。そして、この国最北部の山里まで下ったところで、先を急ぐ彼らとは、イスラマバードの連絡先を書き込んでくれたメモを貰って別れた。この地域は、見上げれば、万年雪をいだいた数千メートル級の山々に囲まれた村が点在する。美しき山々に囲まれた村をひとつ、またひとつと、ミニバスを乗り継いで訪ね歩くのは楽しみだ。イスラマバードまでは、のんびり行こう。
久しぶりの穏かな旅、氷河で道草をくうなど、気ままに村から村へと下って行く。すると、いくつ目かの村に、すでにイスラマバードにいるはずの彼らがいた。そこから次の村までの距離は30km。その途中で崖崩れが起きて、ミニバスは不通、復旧の見通しは無いのだと言う。歩いて行けないことはないが、ご覧の通りの大荷物を抱えて自分たちだけでは歩いていけないので、ここに人が溜まるのを待っていたのだそうだ。旅は道連れ、世は情け、ミニバスで乗り合わせここまで来た者と、彼らともども、大荷物を一緒に抱えて、歩きに歩いた。崖崩れの現場を越え、次の村までもう少しのところに差し掛かったとき、彼らの中の一人が私の担ぐリュックをとんと叩き、「これぞ誠のシルクロード」と、叫んだぶと、笑い声に湧いた。
その後、シルクの反物はラワルピィンディのバザールで10万円以上の値で売れ、8万円ほどの儲けになった。米ドルで得たこの金は、それまで宿代を含めて1日当たり500円程度の貧乏旅行を続けていた私には、大きな糧となった。イランに入国する前に、闇両替で換金すると、隠すのに困るほどの大きな札束になった。気も大きくなり、首都テヘランでは、この貧乏旅行中、最大の贅沢に興じた。宿はヒルトンホテル、特大ステーキにワインの夕餉だ。
神様
イスラマバードへ向かう道中、出会うパキスタン人の多くから、「お前の宗教は?」と、尋ねられた。当時の私は、宗教や信仰というものを自分なりにとらえたことも無く、別世界のものだったから、その時の気分で、「ブッディスト」か「クリスチャン」と、適当に答えていた。しかし、こちらが好感を持つ相手から、同じように問われると、まじめに答えようとして言葉に詰まる。ある時、言葉に詰まると、問いかけた青年が、
「よし、お前がビルの屋上にいるとする。そこで何物かに不意に突き落とされるその瞬間、お前は何を思う?」
「…、…」
そして、
「助けて!と思うだろう。そう、その先に神がいるんだ。…英語解らず、略…。救いを求めたり、手を差しのべたり、感謝したり、何かを信じる心の先に神が居るんだ…、…英語解らず、略…略…、」
私は、内心、「俺は英語が苦手っちゅうのに、べらべら、まき舌で喋らんでくれんやろか?こっちは言うとること半分も解らんとよ。」と、思いながらも、そのあと気づいたことがある。日ごろ、私は海や山、空を眺めつつ、相談や感謝といった、その時々の語りかけを、知らず知らずにしていたことを…。今でさも宗教・宗派を問われて答えられはしないが、見つめる海、山、空などの、その先に亡き父母がいて、私は日々のことや、将来ことなどを相談したり、救いを求めたり、そして、ありがとうと語りかけている。あの青年が語ってくれた、広い意味での「信仰の心」は、自然ななりで持ち続けているのだ、と。
もうすぐ秋祭り。私は私なりの、心の中の神様に、感謝の気持ちを込めて、今年また太鼓を打つ。
About 農樹
2005年 夏
余計なこと その1
春は田んぼ毎の作業やその準備、田植え後の生育管理など、仕事が錯綜するので、うっかり忘れていたということが無いように神経を張り詰めている。大袈裟に言うと、時には脳みそが膨張してきているようにさえ感じるくらいだ。そんな時こそ、ひと息飲み込んで、落ち着いた行動をとるようにしなければ、機械の故障や事故に繋がる。
この春先は、雨や雪が続いたせいで、肥料撒布や荒起しにほとんど手がつかず、やきもきさせられもしたが、トラクターをもう1台導入し、助っ人を頼んだおかげで、作業の追い込みが効いた。1日当りの作業にゆとりを持たせることができたことが、作業ロスを少なくして、大切な初期生育の期間に十分な管理ができたと思う。苗作りについても然り。春先の低温で、一部発芽不良をおこしたが、概ね可も無く、不可も無く、3600枚のうち、処分したのは100枚程度。これくらいなら良しとしよう。
ただし、余計なことが生じてきた。ヌートリアがたくさん出現し始めたのだ。知る人ぞ知る、体長40〜50cmの水生動物、ヌートリア。姿はネズミとビーバーの中間くらい、と表現すれば良いのだろうか。水面をすいすい泳いでいる姿は、何とも愛くるしい。しかしながら、こいつが誠に厄介で、悪いことしやがるやつで、稲を食らうのだ!
田植えしたばかりの生育初期は、田んぼの見通しも良く、農道から100m先まで水があることを確認しながら通り過ぎるものだが、「ん、んー?」、どうも様子がおかしい…。トラックから下りて、向こうへ歩いて行ってみると、植えたはずの苗が、2a程度無い。続きの田んぼも見てみると、部分的に苗が無くなっている。「ん、んー。」次ぎも、また次もと、被害を受けた田んぼを見ているうちに癇癪を起しそうになった。昨年来、イノシシに悩まされ、田植えが終わってひと息ついたら、やつらに電気ショックを与える電気柵を張り巡らすつもりでいたが、まだ田植えが残っている。田植えの手を止めるわけにいかない、どうしたものか…?
すると、73歳になる専業農家のおっさんが様子を見に来てくれた。「ヌートリアはのぉ、あほたれやで同じとこを通るんじゃ。おー、ここ、ここ、ここが通り道じゃ、ここに罠を仕掛けーや。」「おっ、ここが巣穴じゃ、ここも罠仕掛けとけ。」と、罠を仕掛ける場所を見繕ってくれた。
こうなると居ても立ってもいられなくなるのが私の性格。おっさんに罠を借りて、所定の場所に仕掛けると、翌日には獲れていた。それからというもの、また獲った。罠を買っては仕掛けて、また獲った。追加発注して、仕掛けて、またまた捕った。ついでにイタチまで獲った。「どーだ、見たか、参ったか!俺の執念の勝利たい!」
私は農民、猟師ではない。あー、余計なこと。
余計なこと その2
先の罠の話。通称「カッチン」。鉄バネで鉄の輪を開いて、ピンで固定して仕掛ける。獣が触れると、固定ピンが外れて、バネが弾け、鉄輪で足を挟んでしまう仕掛けになっている。これが今時は、動物愛護団体やその手の奥様たちから、動物虐待だとか言って、非難を浴びているらしい。ホームセンターには売って無いので、さもあらんと、金物屋に行ってみるが、無いと言う。贔屓にしている農業資材屋も言葉を濁す有様だったので、私の癇癪玉がはじけた。資材屋の若旦那に、「あんたの客は、都会で涼しげにティーしとる有閑マダムか、それとも俺か?百姓が困った挙句、殺生も厭わず。そんな気になっとる今この時、あんたは、カッチンなんか売ったら非難されんやろか…、なんてなこと考えとんか!鉄砲持って来いって言うとるわけじゃあるまいし、俺が、あんたとこから買うたって、世間に言わずに使えば済むことやろ。さっさと持って来んかいー!」
若旦那は、飛んで帰って、仕入れて持ってきた。仕掛けると、また獲れるわ、獲れる。成果があまりに顕著に現れるものだから、私の顔も知れぬうちににやけて歩いていたのだろう、「くまさん、獲ったんか?」と、近所のおっさん達。「わしも仕掛けたいんじゃけど…。」、「わしもなんじゃ。」、「わしはのぉ、巣穴みつけとんじゃぁ。」、「くまさん、後で金払うでなあ、わしらの分も仕入れてぇなあ。」と、せがまれ、何度も例の若旦那に追加発注をすることに…。物が届くと、その都度私が代金を立て替え、おっちゃん達から集金してまわるはめになり、あー、余計なこと。
しばらくして、例の若旦那と出会った。
「カッチン、どうや、よーけ売れて。」
「はい、なかつくまさん、ありがとうございましたっ!」
「儲けも無しで、カッチン配って、集金するのも大変よ。」
「ありがとうございましたっ!お世話になりましたっ!なかつくまさんっ!」
「それでさぁ、おっさん達には、これから先、あんたのとこに直接頼めって言うといたぞ。」
と、言ったとたん、若旦那の口は半開きになり、
「あっ、りがとうございます…、なかつくま・さ・ん」
と、言うのがやっとだった。
「ははははは。」
ケモノ襲来
次ぎ次ぎに罠を仕掛けて、稲を食らう憎きヌートリアを獲りまくっていると、別の地区では、アライグマどもがヌートリアと同じことをやっていた。軽トラを降りて、田んぼの向こう側へ向かってみると、まあ見事な禿げ、禿げ、禿げ…。怒りの次に闘志が湧くと、若旦那に連絡をとる。
「おーい、カッチン10個持って来てー。大至急!」
それにしてもヌートリアに、アライグマと、可愛い顔していながら、やることはえげつない。人間にもそういうのがいるが、そんなのばかりでもない。しかし、やつらは皆が皆、全員えげつない。くっそー、どこのどいつだ!こんな連中をわざわざ海外から連れてきやがって。見つけ出して火あぶりにしてやりたいものだ。
そうこうしてたら、いよいよイノシシ達がやって来始めた。今度は不細工な顔してえげつないやつらだ。小さな畔ならひっくり返し、堅い大きな畔でもえぐって食い物を探す。田んぼの中を走っては稲を踏み込む。そして稲穂が実り始めるとそれをしがみ、しまいに田んぼの土に体をこすりつけるようになるから、やつらが来はじめたら、必ず対処しないと、収穫ままならないほど、無茶苦茶にされてしまうのだ。
まずは2エリア、約3.5haを対象に電気柵を設置した。4〜5mおきに支柱を立て、1本の支柱につき碍子を2個ずつ取り付ける。碍子から碍子をニクロム線が入った細いロープで結んでいき、ここに5,000ボルトの電流を流して、悪さをしに来るイノシシに、電気ショックをくらわせるという仕掛けなのだ。その距離1,300m、支柱の数350本、碍子の数700個、電線総延長は2,600mの大仕事だったが、効果は絶大。田んぼのまわりにイノシシの足跡はあるが、電線の内には入っていないようだ。そればかりか、ここでバッチーンと痺れたに違いないと思われる、のた打ち回ったような痕跡もあり、毎朝そんな場所を探すのが楽しみになった。
これでケモノの難を逃れた、と思っていた。しかし、一難去ってまた一難。あっちにも、こっちにも、川向こうの田んぼにもイノシシはやって来た。もともと、先日電気柵を施した約3.5haは、イノシシ出没危険区域だったから、設置を計画していたが、計画外のことは起こるものだ。こちらで追い払えば、向こう…、向こうで追い払えば、そのまた向こう…と、あー、イノシシ相手にイタチごっこときたもんだ。結局、あと3エリアに電気柵を設置。合計してみたら、面積にして7ha超、距離3,000m、電線総延長は6,000mだ。今時の農業は、ケモノとの戦いなのである。
最後のエリアには、私だけが電気柵を設置してしまうと、おそらく次ぎに狙われるであろう、他家の田んぼがあったので、その家のおっちゃんにも、一緒に電気柵で田んぼを囲ってはどうかと声をかけると、ふたつ返事で話しにのってくれた。非生産的な作業ながらも、「くまさん、声かけてくれてありがとう。」と感謝されると、重くなりがちな気持ちも救われる。作業終了、差入れのスイカを食べ、食べ、
「罠に電気柵に、今年俺が払ったケモノ対策代は50万円よ。」
「ごっついもんじゃのー。」
「来年から、米作りは縮小して、獣害対策稼業でも立ち上げようかって思いよるんやけど、どーやろか。」
「そのほうが堅い稼ぎやろな。」
と、いった冗談を交わして、運命共同体は帰路についた。
翌早朝、そのおっちゃんから電話があった。
「くまさん、電気柵飛び越えてなあ、今度はシカが入りよった〜。」
朝飯もそこそこに、田んぼに急行し、おっちゃんとため息つきながら、もう1段上に電線を1本張った。
「はあー。昨日、よこしまなこと考えたバチやろか?」
「そうかもなあ。」
ええーい、ここは動物園か?!
About 農樹
2005年 春
独りじゃないということ
今年の春作業も終盤、あと4〜5日で田植えが終了できるという時、北海道は旭川から訃報が入った。21年前鳥取で知り会って以来、私を弟のように良くしてくれたそのご夫婦は旭川出身の奥さんの病気に伴い、数年前から故郷に戻っていた。私にとても逢いたがっていたが、こちらの農繁期のことを気遣い、悪化する病状を連絡せず病気と闘っていたと聞き、私はすぐに飛びたい気持ちを抑え、最後の田植えを片付けてから旭川に向かった。家に到着すると、ちょうど初七日の法要が始まるところだった。
鳥取に居た時分、親からの仕送りが無く、講義の合間にヘルメットと長靴を抱えて土木現場で働く貧乏学生、学費滞納の常習犯だった私は、大学2年の時、タダ住まいできる下宿に在りついた。そこは繁華街のど真ん中、飲み助の私は、「下宿代が浮いた分は飲める」とばかり、ある居酒屋に通うようになった。そこは開けっぴろげで気さくな夫婦が経営する小さな店で、ご夫婦の人柄同様に常連さん達がこれまた楽しく誠に居心地良く、夜になるとつい足が向いてしまっていた。しかし、いかに居酒屋でも貧乏学生が毎日通えるはずも無く、私がお代を支払ったのは僅かな期間。そのうち、「今日はツケに…」と言って帰っていたのが、「今日も…」となり、しまいには、「くま、金のことは考えんで毎日来い。」と言っていただいたのを良いことに、私は卒業まで見事に皆勤した。年齢差はさほど無いのに私達は「お父さん」、「お母さん」と、そして「くま」と呼びあい、心通わせあい、ともによく働き・学び、ともに遊び、全てのことに全力で貪欲な青春の日々を謳歌したものだ。
その「お母さん」が逝ってしまった。私が、稲作シーズン中は、2日と家を空けたことがないことや、毎年田植えが終わると1日や2日寝込む事を知っている「お父さん」は、「会いたかった。でも、田んぼは大丈夫か…、」と。
それから48時間、僅かに仮眠をとりながら2人で語り合った…。独りで生きるなんてつまらない。人は所詮弱いな…。しかし、支えあって、前を向き合っていると、ベクトルが生まれる、ドラマが生まれる。そうして生きてきたもの、独り残されたわけじゃないさ…。「お母さん」の葬儀にはタツ、タメ、アカギらが駆けつけたそうだ。私が帰った後には、ノビやユキチが来るという。他の面々もまた都合をつけ、順番に旭川に来ると言ってくれているという。鳥取にあったあの店に代々「居ついて」は巣立って行った私の後輩達だ。49日まで、誰かが家に上がり込み語り合ってくれるだろう。この先のこと…、独りじゃないから、Don’t worry, Be happy.と、思いたい。
北海道から帰ると、6月は大渇水。ひと息つくこともなく、田んぼの給水に駆け回る。7月にようやく雨が降ると、畔草が手加減なしに伸び始めた。
About 農樹
2005年 冬
クリスマスパレード
1997年から続けている、クリスマス・イブ恒例のトラクターパレードは、その前年の悲しいクリスマスに端を発している。
泣く妻を説得して、脱サラ新規就農したものの、就農2年目、’96年のクリスマスには、息子が望む電動のゴジラのおもちゃが、けちなサンタクロースが、モスラの下敷きを届けるありさま。悔しくて、情けなくて、言葉にならなかった。
‘97年、生活に少しだけ灯りが見え始めて、息子を喜ばせたい、そして、前年の憂さを晴らさん、と始めたものなのだ。農家の象徴とも言えるトラクターをトナカイに見立てて角を取り付けて走る。牽引するトレーラーには、思い思いの「造り」を施して、クリスマスソング高らかに物部地区中を駆け回る。
年毎に山車製作やコース取りに試行錯誤し、パレードで起こるハプニング、ドラマ、思い出を重ねるうち、小さな響きは共鳴を生み、恥ずかしそうに遠巻きに見ていた妻や子が、そしてあの人が、ひとり、またひとり加わりこのパレードの虜となって、去る12月で8回目を数えた。
新加入したメンバーは、パレードが終わると必ず、「パレードを見ていた時と参加した時の違い」や、「あれほどまでに、サンタクロースが楽しそうにしている訳」がよく解ると言う。見る側にいた時、パレードに遭遇するのは、地区毎に決めた停車場所でのわずかな時間。立場変わって、それをやる側になると、パレード全行程3時間の中で、停車場から停車場までの、その道中こそが、パレードの真骨頂なのだ。
物部営農センターから白道路へ向かう道、何北中学校付近、西坂から新庄へぬける峠道。これら真っ暗闇を駆ける時、連なる山車はうねりながら一層輝きを増す。前方にいるサンタクロースも、後方にいるサンタクロースも、連なり重なる輝きに、いろいろな想いを馳せながら笑っている。
寒いと言っては、運転するサンタクロースに、気遣い構うこともなく酒をまわし飲む不良サンタクロースあり、肝心の蛍光灯を叩き割ってしまうおっちょこちょいサンタクロースあり。乗り降りの際に、こけて頭を強打する、どじなサンタクロース。コースを間違って、あらぬところへ走っていくマヌケなサンタクロースと破茶滅茶なサンタクロース達は、互いの関係を再確認しながら、そしておらが村を再発見しながら次の停車場へと進む。
「次も大勢待っててくれるかな?」と、期待と不安を乗せて走る向うに、待つ人、人、人。「メリークリスマス!」世界にサンタクロースが、これほどはしゃぐクリスマスは無いだろう。いつまで続くか、このパレード。差し当たり、2005年もやりましょか。
友が来た!
友遠方より来る、これ楽しからずや。2月の末に、岐阜の山奥から親友がやって来た。私と2歳違いの彼は、私と同じく、1995年に脱サラ就農した、本年農民11年生。
営農分野は稲作、家族構成は妻と子1人…と、全てが似通っており、体育会系の大酒飲み、と来れば当然のごとく、出会った瞬間から意気投合しようというもの。
お互い、まだ百姓駆け出しのころ、東京で開催されていた減農薬・無農薬・有機稲作の研究セミナーに足げく通っていたとき、会場内でニアミスを繰り返していた時期があったようだが、その後、セミナーなどに通うこともなくなった頃、知人からお互いを紹介され、付き合うようになった。
毎年田植えが終わった初夏と、そろそろフィールドに意識を向けていこうとする冬の終わりに、お互いの家を行き来している。出会うば深夜まで、そして早朝から、寝る間を惜しんで差しつ差されつ、盃片手の会話は弾む。互いのカミさんと子供も「くまさん」「やまちゃん」と諸手を上げて歓待してくれるものだから調子づくというものだ。営農や経営の話はもとより、村のこと、家族のこと、それぞれの生い立ちや将来への想い等など、決して気取らず、正直な気持ちを話せる家族同士は何とも心地良いものだ。
何度出会っても話題にこと欠かないのは、お互いが前向きに生きている証し。その前向きさや明るさ、誠実さが相乗効果を生み、次ぎに会う半年先までの活力になる。幸せな親父同士は決まって、「元気充填!また会う日まで頑張ろう!」という気に満ち満ちながら別れる関係だ。
3年前から、彼もまたクリスマスパレードを地元でやるようになった。向うはこちら以上に小さな集落とあってギャラリーよりサンタクロースの人数が勝っているという。
さあ、春はそこまでやってきた。また逢う日まで頑張るべ。
春が…、
彼と別れると春がくる。彼と充填した元気を出力していく時期がやって来る。
人それぞれ、ふきのとうであったり、春一番や、桜であったりと、春の訪れを感じる素材はまちまちだろうが、私は物の動きで春が来た…、来てしまったと、毎年感じるようになった。シーズン到来を前に、肥料や育苗の土が入庫してくる。それぞれが、何百と積み上げられる山を見ると、ぞっとする。「まずはこの山潰しか。いよいよ、だ。」嫌でも鈍った体に鞭を打たざるをえない。心の充填は済んでいても体は思う様に動かない3月。
田んぼへ出て行くにはまだ早い。農業機械のメーカーから、お誘いがあったので大規模な展示会に出かけてみた。乗り合わせのバスを1台出すとのことなので、当日の早朝、集合場所に行くと、我が家の担当者である、やっさんがバスへと案内してくれた。どうも私が最後の乗客だったようで、「遅くなりました」と、乗り込んでぎょっとした。私に向いている顔の平均年齢が極めて高い。平均年齢などと言えたものでない。40歳の私を除くその顔ぶれたるや、ぜーったい、65歳以下の顔が無い。支店の従業員数名と私を除いた乗客で平均年齢を算出しようものなら、間違いなく70歳を超えてしまうのだ。
バスの中では、メーカーの連中が話し相手になってくれたものの、その話しの内容が、寒々しい。「去年の台風で、機械が水没したお客さん達、これまで機械が動くうちは農業続けてきたけど、今さら更新してまで農業は続けないとさ。」、「もう農業辞めんべっ、て人が結構あってね。うちもお客さんをかなり無くしたのよ。」と、いった話ばかりだ。
日本には、毎年必ず春が来る。果たして、寒風吹き荒れる日本の農業界に、春がやって来るのだろうか。前向きな男ふたりくらいでは、春風を吹かせそうにもないなあ。
About 農樹
2004年 秋
台風がやって来た
今年は、農家にとって酷な年だった。春先の異常な暑さと乾燥。梅雨明け前後の少雨などはその序章。各地の水害、あちらこちらに上陸する台風が、8月末、ここにもやってきた。台風16号の突風で、ビニールハウスのビニールが破られた。ビニールハウスはどこかに風を含む場所があると、めっぽう弱い。次々と上陸してくる台風の対策として、いったん稲刈りを中断して、ビニールを全て取り去り、骨組みだけにしたから大丈夫。
次の17号は大陸へとぬけたものの、すぐに18号がやってきた。発生当初は、17号同様、大陸へぬけると思いきや、16号と同じコースをたどるらしい。16号なみの備えをして、台風が過ぎるのを待ったのだが、どうして、どうして、強烈。乾燥場外側に設置してある集塵装置が吹っ飛んだ。籾殻を貯留するビニールハウスが吹っ飛んだ。おまけに、中に貯めてあった籾殻も吹っ飛んだ。尋常な量でない我が家の籾殻が、ブリザードのように舞う。「やばい、明日は菓子折抱えて、町内頭下げて回らないかん…」、と思った矢先、集塵装置が吹っ飛んでいるから、乾燥場の建物内部に烈風が吹き込んでいる。私は飛んで行って盾となり、手探りで板とつっかい棒を探して難を逃れたものの、あー、生きた心地がせんばぁい。台風に慣れっ子、北九州育ちの俺もたまらんばぁい。
翌早朝、いろんなものが吹き飛んでいた。我が家は例のビニールハウスのビニールとその間口、そして集塵装置。被害総額50、60万円といったところだろうか。まだ、これは序の口。世間では建設中の鉄骨の建物が、20mほど飛ばされていたのを始め、倉庫の軒先がふっ飛んでいたりと猛烈な台風の爪あとが残っていた。
稲は大丈夫だろうか?順番に田んぼを見て回ると、見事に南から北に向かって稲が倒れかかっている。稲の倒れ具合を、ボクシングに例えて表現すると、カウント・テンはぶっ倒れて起きあがれない状態。稲穂がべたりと土にくっついて、参りましたと言っているかの様。これだと、えらいこっちゃ、と慌てなくてはいけない。早く稲刈りを進めないと、発芽したり、腐ったりしてしまう。
そこへきて我が家の稲は、カウント・セブンからナインの間で持ちこたえていた。「はー、やれやれ。」そして、「うちの稲は大したもんだ」と感心もしたが、その後の稲刈りはかなり手間取った。
そして、また10月16日と17日、我が物部諏訪神社の秋の大祭が開催された。岸和田のだんじりや博多の山笠のように「動き」や「迫力」あるものとは違い、霧深いここの気候を映し出すかの様に静かで古式ゆかしく、囃しに合わせ大名行列が練り歩くというもの。今年も私は囃し方の太鼓打ち。荒れた年ながら、どうにかこうにか収穫の秋を終えることができた、その感謝の念を奉納をした…、つもりだったのだが、またまたやって来ました23号台風。
近所の犀川は異常増水し、町内所々が浸水したため、数時間ばかり避難所で過ごすはめになった。幸いにも町内は、大きな被害からは免れたものの、私が役員を務めている潅漑用ため池は、激しい漏水に堤体の陥没と、決壊の危機にさらされ、今も警戒中。当分ここを離れられそうにもない。
「申(さる)、酉(とり)荒れて…、と昔から言うてなぁ、」とは老農夫の言葉。来年の干支は、酉…。また荒れるのだろうか、神に祈るのみ。
就農10年、そしてこれから…
’95年、40aの田んぼと5aの畑で農業を開始。しかし、早速やってきた生活苦。
米に野菜、日銭稼ぎに売れるものは何でも売った2年目。漬物やうどん、菓子など作っては売り歩いたが、この年、息子に届いたクリスマスプレゼントは、モスラの下敷き1枚。
’97年、一代奮起して物部町に移った3年目は田んぼが1.7ha。藁をも掴む思いで作ったパンがよく売れた。3人家族の生活に、小さな灯りが見え始め、嬉しくて、嬉しくて、その嬉しさを弾かせたい、息子を喜ばせ、前年の憂さを晴らしたいと始めたクリスマスのトラクターパレード。
農業機械を買い揃え始めた4年目、’98年。小さな物から大きな物まで次々に買っていった。いつの日か、ライスセンターを建てようと、裏の田んぼを買い、造成した5年目、’99年。
作付面積が急増する中、夢のライスセンター建設の計画をすすめ、ようやく融資にこぎつけた7年目、’01年…。そして遂に完成、その秋には稼動、感涙した。
8年目には、作付面積8.5ha、9年目は9.5ha、10年目には10ha超を作付けするようになった。
よそ者新規就農者の荊棘の道も、歩むうちに岩肌の道が、土道、そしてそれが砂利舗装となり、未だ曲がりくねってはいるけれど、ようやくアスファルト舗装の道を歩んでいるかのようになってきた。
次ぎの10年は、真っ直ぐなハイウェイを駆け抜けるようになりたいものだ。