土造りから稲づくりまで、丹波のお米なら農樹

農業生産法人 株式会社 農樹

  • ホーム
  • 農樹について
  • 会社案内
  • 農樹通信
  • 作り手
  • 作り方(栽培)
  • リンク集
  • 通信販売
  • お問い合わせ
  • 取扱店舗情報
  • カゴを見る

TOP>Author Archive

2007年 冬

見えにくい

岐阜に暮らす稲作農家の彼としばらく会ってない。彼は、毎冬、奥さんの実家のある島原に一家で里帰りしているというから、私が13年ぶりに九州へ帰るのなら、いっそ島原で会おうということになった。ところが、私は九州人とはいえ、長崎県南部に足を運んだ事が無く、土地感が無い。
農樹通信 島原鉄道「山ちゃん、博多から島原に行くには何が良いの?」
「電車で乗り継ぐより、博多からバスに乗るか、熊本から有明海を高速艇で渡るってのが良いんじゃない。」
と、いった電話のやりとりの最中、こちらはJR時刻表の最前頁の路線図を開いて、「ふんふん、それで最寄駅はどこね?」
と、聞くと、
「電車なら島原鉄道・島原駅で、高速艇は島原外港に着くんだわ。」
「ん…、…。」
「諫早から延びてる線が島原鉄道だ。」
確かにJR諫早駅は解った。しかし、諫早から伸びる島原鉄道らしき水色の路線の上にある駅名が読み取れない。
「…、んー。」
電話の向こうで、からかい気味に彼が言う。
「くまさん見えないの?老眼じゃないの?」
と、言われると、私は即座に反発して、酒が入っているから眼が霞んでいるのだ、ということにしておいて、電話を切った。翌朝もう一度路線図を開くと、またもや見えない。もしかして?と、恐る恐るスローモーションで時刻表を持つ手を遠ざけると、見え始めた。近付けると見えない。また遠ざけると、やはり見えたので、私はしょげかえった。
「あーあ、ろーがんだ、ろーがん。」
自分に振りかかってみると、この単語の響きは、誠に厭らしい。この日本語を造った先人に抵抗したくなり、
「英語ならもっと別な言い方をするのでは?」
と、三省堂のポケット辞書をめくってみた。まずlongsightedness(遠視)とあるので、
「ほーら見ろ、英語なら老いると言うニュアンスは無いじゃない。日本人は酷な言葉を造るものだ」
と、思うや、すぐ次に何か書いてある。近付け過ぎていた辞書を遠ざけてやると見えてくる。
(老眼になる)をOne’s sight deteriorates with age.(老眼鏡)は spectacles for the aged.と、書いてあるーと、いうことは、英語もまた、歳のせいだと言っているのだ。
「やめた!馬鹿馬鹿しい。何をやってんのかね、俺も暇なもんだね。」
と、自己嫌悪。ポケット辞書を眼から離したり近付けたり…、見えにくい眼で「老眼」を調べる俺は愚の骨頂だ。

再会

北九州への帰郷は13年ぶり、高校時代の友人とは20年ぶりの再会だ。まずは亭主も嫁さんも同窓生の夫婦のもとへ。
「おーい、来たー。」
「変わらんね。」
と、嫁さんの方に言われて戸惑った。白髪が増えて腹が出っ張った俺を見て、
「変わらんねは無いやろう」
と、言えば、
「男子の変貌ぶりはすごかよ。なかつくまくんは変わらん男子の最右翼くらいにあたるばい。」
と、いうことらしい。この家の主・やつこそ全く変わらず、高校の時そのままだった。まずは、プシュっとビール、
「1本目は出してやるけど、次からはセルフばい。冷蔵庫開けて勝手に飲んでくれんね。」
と、気がねが無い。先着の同窓の女子とこの夫婦と私で…、乾杯。近況に昔話、誰かのうわさ話と、あっちこっちに会話は飛ぶ。もつ鍋の準備にかかりながら、またプシュ。そのうちグラスに氷が入り、焼酎オンザロック、カランカラーン。嬉しくて、話したくて、聞きたくて、酒がいくらでも体に入っていく。
「中津隈、今日はとびっきりの刺身ば食わしてやるけんね。」
と、大皿刺し盛りがどかん。
「ほら食え、食え。行きつけとう魚やん親父に、俺がいーとばっかり奥から出してこんねっち言うたらちゃーんと出てくるったい。」
と、言うだけあって、一品一品が特級品であること一目瞭然。
「これ食うた?これ食わんね。」
「うまい。」
「ほらあ、これ食うわんね。」
「うまかねー。」
するっと焼酎が入っては、目が潤む。高校時代、やつはサッカー部で私は剣道部。ともにクラブ活動は熱心だったが、成績は底辺をさまよう「できん」仲間、「悪さ」仲間の中でも、するっと心の中に入り込む優しさを持った男(やつ)。
農樹通信 五平太船我等が母校は、筑豊から洞海湾へ石炭を運搬する、その名も五平太船が行き交った堀川沿い、JR折尾駅付近にある。その街の背景から、労働者が多かったことや、駅周辺には大学、女子大、医大、普通高校に女子高とあり、学生も多かったからか、決して上等とは言えない飲食店が数多くあった。「できん」連中や、「悪さ」をしでかす連中は、夜に限らず町をふらふらしている酔っ払いをよそに、よくそういった店に出入りしていた。そんな店の中のひとつ、「はしもと」という名前を、
「覚えとうね?」
と、やつが言い出した。
「特ちゃんのね?」
特ちゃんとは、特製ちゃんぽんのことで、「はしもと」はとろみを効かせたちゃんぽんスープが特徴だった店。
「そうばい、特ちゃんのはしもとに、この前行ったったい。」
「へえー。」
「そしたらくさ、値上がりしとったったい。昔180円やったろうが、それが値上がりしとって200円になっとうたと…よっ。はははあ。」
「わはは、ひっー」
頑固でおおらかで、滑稽な故郷健在とばかり、そっくりかえって笑ってしまった。「20円値上げするんも、悩んで悩んでから上げたとやろーねー。」
語り明かして気がつけば朝6時。仮眠をとってから折尾駅に送ってもらった。「いっつでも帰って来い。いっつでも帰って来たらいーばい。」
…とかくさ、涙が出そうになるけん言わんでくれんね。帰るばい、九州ば忘れとったわけじゃなかもんね。ご無沙汰しとったのに、ありがとう、嬉しかったばい。「じゃあのお、またのお。」

島原での再会

友にJR折尾駅まで送ってもらい、電車で博多へ、そして島原行きのバスに乗り込む。3時間後には普賢岳が見えてきた。
「また変な出迎えしなきゃいいがなあ。」
人目を憚ることの無い、「ヤツ」には、再会そして別れの度、身が縮まる思いを味わされてきたから、出会う前には、心構えが必要なのだ。おそらく何か叫びながら抱きついてくるに違いない。
彼は警視庁を辞め、’95年から岐阜県八百津町で島原出身の奥さんと娘の3人で稲作を営んでいる。就農した年が同じなら、年齢も近く、家族構成、よそ者入植者で体育会系ときているものだから、気が合わない訳が無い。
間もなく島原駅前とのアナウンスに、そろそろ覚悟を決めると、交差点に向かうヤツの姿を発見。こちらが軽く右手を挙げると…、きたっきたー、大股を広げ、諸手を大きく振っている。バスを恐る恐る降りると、やれやれ。信号待ちの交差点の向うから、
「くまさーん、ようきたー。おーい、まっとったばーい。」
通行人が振りかえり、そして立ち止まる。間もなく青信号に変わったから救われたものの、この場面で信号が変るまで叫び続けるのがヤツの習性なのだ。この後大抵は所構わず、大柄な男同士の抱擁となるのが常だが、今回、私がそこそこ荷物を抱えていたおかげで免れた。
さて、今宵2人の宿へ向かう途中、バドワイザーを2、3本ひっかけただけで、前日の酔いが舞い戻りほろ酔い気分。いかん、これでは本日の一戦を乗り切れない。食事は、有明海を臨む風呂で、体内の残存アルコールを抜いてからにしよう。
風呂上り、彼の奥さんと共に3人、老舗旅館の料理に舌鼓を打ちはじめると、今宵も酒が、するする喉を通り抜け始めるから恐ろしい。愁うべき酒のみの性。互い身の上に共通点が多いので話しの呑み込みが早く余計な説明が要らない。会話はハイピッチなキャッチボールのごとく進むから、盃も進む。
「こうして島原で飲めるなんてね…。」
「農業をするだけで精一杯だったけれど、こんな余裕も、少しはできたってことだね。」
と、締めくくり、宿での酒宴は幕を閉じた。

島原の屋台

奥さんが実家へ引き上げると、酔いどれ2名はふらふら街へ繰り出した。さほど開いている店は無かったが、梯子酒をしなくてはおさまりがつかないので、まずは1軒目。店主が酔っ払って、何を話しているのか解らない鉄板焼きの店を経て、次は、駅前の屋台へとハシゴした。
相撲がめっぽう強いという屋台の主人は、にこやかで愛想が良く、その面白くて滑稽な話しが、こってり味付けされた九州弁で、テンポの良く出て来るものだから時の経過を忘れてしまう。
主人もまた、ぐびりとコップ酒をやりながら、3人でわいわいやっていると、60歳くらいの小柄な目つき怪しい酔っ払いが1人、彫りと皺が深い顔を暖簾の内にのぞかせ、だらりと腰掛けた。
「いらっしゃい、なにんされますか?」
と、主人が声をかけると、おっさんは、うなだれた頭をじわりと持ち上げて、
「…、…、さーけぇ」
「はいっ、冷やですか?燗ですか?」
「…、…、あつかーん」
おっさんの注文を聞くと、主人は酒を注いだチロリを、屋台の外のコンロにかけて、すぐまた談笑の輪に戻ってきた。図体も声もでかい男たちが、暫らくわいわい騒いでいると、今度は、隣りの屋台のおばちゃんから声がかかる。
「たぎっとるばぁい」
「ありゃあ」
主人は慌ててチロリを取り上げ、たぎった酒をコップに注ぐ。
「あつっ、あつかー」
と、言いながら、熱くて持っていられないコップを、もう一度持ち直し、反対の手に持った空のコップにジャーと移す。
「あつっ、あつっ」
右から左へジャー…、
「あつかーぁ」
左から右へジャー…。おいおい、沸いた酒を冷まし売る気か?主人は、何度かジャーを繰り返し、その様子を、黙って見ているおっさんの前に
「はい、熱燗」
と、悪びれることも無く出しちゃった…から、絶句した。どうなることか、この場面の行く末を恐る恐る見ている我々の隣で、おっさんが、ちびりとこの「熱燗」を口にした。
「あつかー」
と、コップを差し戻す。ほら、みたことか…。酒、注ぎなおせよと、内心思っていると、主人は、こともあろうに、
「あつかですか」
と、自分もおっさんの酒をすすってみる。そして、
「ほぉ、あつかね」
と、コップを両手にまたジャージャーして
「はいっ、これでどげんですか?」
と、おっさんに差し出すから、我々の眼も、口も開きっぱなしとなる。そして、おっさんが、再びそれを口にして、
「まーだあつかー」
と、返したところから、笑いが止まらなくなってきた。
今度は、主人が入念に、ジャーーー、ジャーーーして、おっさんに差し出す前に一口すすって温度を確かめる。そして、今度は自信ありげに、
「これでどげんですか」
と、胸を張って出した。さあ、この結末は、と息をのむ我々。おっさんは、コップを手に取り、ゆっくりと口に運んで、ちびり、
「…、…、これでよかー」
と、納得げにうなづく。
たまらんばい、笑いが止まらん、たまらんばい、九州はこれでよかー。

島原での別れ

楽しく騒げたおかげで、翌日はきつい二日酔いを免れた。島原城を散策して、奥さんの実家で、ちゃんぽんをご馳走になると、そろそろ博多行きのバスの時間が迫ってきた。
「普通に別れようよ…な、山ちゃん…」
と、願いつつバスに乗り込んだが、なかなか発車しない。ヤツが何かしでかす前に、一刻も早く発車して欲しい。しかし、願いは天に届くこと無く、バス前方から、
「おー、くまさん!」
と、大声がする。ヤツがバスに乗り込んで来た。運転席の横に立って、手を振っている。
「んー…」
私に手を振っている。
「くまさん、元気でな」
「わかったから降りろ」
「またなあ」
「いいから降りろ」
力無く叫ぶ私をよそに、大音声で「気をつけてなー、元気でなー」と言い放って降りて行った。たまらんばい、でもまあ、これでよかー。

2006年 秋

厄はいつ落ちる

9月になると稲刈りだ。この夏は、春に骨折してしまった右足に、「しっかりせんか!」とはっぱをかけつつ、リハビリを兼ね、歩きに歩いて、生育管理に精を出した。おかげで、稲は上々のでき映えだ。コンバインも乾燥機も籾摺り機も充分整備してある。こう来ると、どんなに良いお米が穫れるやろかと、気分も弾む。
期待に胸膨らませて、意気込んで、刈り取り開始。まずは、一番刈り終了。籾を乾燥機へ放り込んで、翌日には、乾燥終了だ。それをタンクへ移し替える。これを籾摺りしてしまえば、今年の米のお姿拝見となるのだが、そのお楽しみは先送りにして、二番刈りへいざ出陣。
数日後、いよいよ、籾タンクに放り込んであった、一番刈りの籾摺りをしてみる。「プリプリの米、おー、きれい。」
春に受けた、厄年のハプニング・右足骨折、苦難、異常気象も見事に乗り越え、どうだ、男・中津隈ここにありーっ、と叫びたくなるプリップリの玄米が出てくる出てくる。18年産米のキャッチフレーズは、

「本厄なにするものぞ」、ってのも、良かろうか?
「七難八苦乗り越えて」、もなかなかいいぞ、なぞとほくそえんでると、30キロ毎袋詰めして、積み上げていく米袋が何と軽いことか。
「そーれほいほい。」
「これが5ヶ月前に、くるぶしを骨折した男の成せる技か?」
「俺は鉄人やろか?」
「んんっ、足に金属打ち込んでましたね。」
「なーんのことなかー、ほいほい。」
「それにしても、よか米ねー。」
と、自画自賛。

だが、それから間もなく、秋雨前線が活発になり、雨が続いた。8月に僅かの降雨しか無く、晴天続きだったから、嫌な予感はしていたが、それが当たった。土砂降りの雨が丸3日降り続いて、倒れかけていく稲に、容赦なく、また雨。そして、さらに雨。いよいよ、雨がやむ間を見計らって、稲刈りするといったあり様になってしまった。
長雨の合間の稲刈りは、人にも機械にも辛いものだ。コンバインのあちこちで、稲や泥がつまって、それを取り除くときの情けなさといったらない。好天なら屁でもない稲刈りが、辛い仕事の波になって押し寄せる。くたくたになって、その日の仕事を終えても、作業進捗は知れたものだ。お天道様に、恨み節は聞き入れてもらえず、気持ちは焦るばかり。
コンバインもまた、稲を刈り取るバリカンに似た刃の切れ味が悪くなるばかりか、爺さんの入れ歯のように、ぶかぶかなってしまうあり様だ。注油を怠ることはないが、これほど泥を噛まされたら、ガタツクの必至。その刃に駆動を伝えるクランクもいかれてしまって、双方交換したら、はい20万円…、だとさ。

こちらがギブアップする寸前に、お天道様の気まぐれは持ちなおし、ダウン寸前にコシヒカリを刈り終えた。そうすると、この秋の疲労のみならず、おそらく春のトラブルから始まる疲れの蓄積が、マグマのように溢れ出てきた。肩や足腰が張り、夕方になると力が抜け、頭はぼんやりして、記憶力が極端に低下している自分に気付く。
近頃、身の回りのものまで、私と仲良く、がたつき始めた。手始めにアイロンが壊れ、かなりの年代物だったので仕方なかろうと、かみさんと電気屋に行くと、今時のアイロンはコードレスになっていて驚いた。それから2、3日後、かみさんが、
「今度は、洗濯機が壊れた。」
と、言うので、何か引っかかっているだけだろうと分解してみた。異物なんか何も無いのに、駆動シャフトが回っていない。
「買い替えるしかないか。」
配送料と据えつけ費用を節約したので、結局丸1日、我が身を洗濯機に捧げてしまうはめに。
まだ続く…。ファクスが壊れていることがわかって、泣く泣く電気屋へ向かうべく、支度をしいてると、
「くまさん、電子レンジも壊れた。」
と、妻の声。何もかもが、がたがたぴっちゃん、あー、厄はいつ落ちる。
電話機もパソコンも、怪しい動きをしていることを、俺は知っている。

2006年 夏

厄年

毎年1月、近所の厄善神社の祭りが近付くと、「お声」がかかるので、そこそこの金額のお供えを包んで、のこのこ出かけている。例年、受け付けで献金し、ご祈祷申し込み書に氏名・年齢を記入して、家内安全、無病息災、大願成就あたりに丸をつけ、手を合わせて帰ってくるのが常だ。
今年も、いつもと同じように書き込みをしていると、
「くまちゃん、本厄じゃ。」
と、受け付けにいるおっちゃんに言われて戸惑った。
「うっそー、俺って、今年は後厄やろ?」
すると、そこにいた2、3人が、
「お前、今年で42になるんじゃろ。」
「うん。」
「本厄じゃ。」
「うっそー?」
「うそって、お前、昭和39年生まれなんじゃろ。」
「うん。」
「ほらー、間違い無く本厄じゃ。」
「へえー。」
どうも、私は勘違いをしていたようで、当年42歳、今年が本厄っていうものらしい。そうは言われても、特別にご祈祷をお願いする術も、その気も無いまま、
「ありがたくも無いことを、知らされただけかよ?」
と、境内でふるまわれるぜんざいを、一杯すすって帰った。

ところが3ヶ月後に事件は起こる。
稲作シーズンが到来すると、種籾を処理する。育苗の土、肥料や資材が入荷する。種蒔きの準備、苗代の準備に人の手配をして、この春の作業工程が整いかけた4月。なんと長梯子からおっこちた。かなり冷え込んだ日の早朝、作業場の2階部分にあたる所に押し込んである資材の在庫を確認するために、長梯子をかけて登った。いつものように登った、登りきった…、すると、あらっ…。梯子の足もとが後ろにするする逃げて行く。どうもコンクリートの盤面が濡れていたようだ。梯子をかけた相手側を掴みかけたが、まだそこにいる梯子が邪魔をする。掴まり損ねて、あー、一巻の終わり。
レントゲンを見るなり医者は、
「手術しましょう。」
「はあ、今からですか?」
「何を言ってるんですか、手術となると手続きや検査をしますし、部屋の空き具合も確認しないといけません。」
「先生、部屋の空き具合って言うことは、入院しないといけないの?」
無知な私は、右足のくるぶしの骨が2箇所割れている写真を前に、局部麻酔程度で今から手術して、とっとと帰る気でいたものだから、全く話しがかみ合わない。関節に当るこの部分の骨折は、全身ないし、半身麻酔をかけて金属プレートで固定するのだそうな。そして、手術前のいろんな検査、手術、術後の処置などで、2週間の入院を要するのだそうだ。
「先生、今日のところは仮ギプスだけで帰ります。」
そう、この時、この春1回目の種蒔きと苗代作業が控えていた。尻上りに忙しくなるのに2週間も病院でおとなしくできるわけないもんね。
「後遺症がでる可能性が高い。」
と、言われても、
「私は稲作農家。これから、ひと山、またひと山と乗り越えていかないと、収穫の秋が来ないのです。」
そして、目の前のひと山を越えて病院へ向かった。
「どうですか、手術をしませんか?」
「2週間も仕事を空けるわけにいきません!」
医者は、リスク覚悟の上でならという前置きの後、
「1日で帰れるように手術を組んでみましょう。」
と、言われた。
「ほんと?先生、1日で。だったらこの日にやってください。絶対この日。」
手術日を指定する患者は珍しいようだ。
手術当日は、午後から入院、全身麻酔を施され、いちころで夢の中。手術は無事終了。麻酔から覚めてもボーっとしているところで、
「骨に金属プレートをあて、ビス8本打ち込みました。」
と、レントゲン写真を見せられてもピンと来ない。しかし、そのうち痛みが襲って来て、のたうちまわりながら、自分が手術したことを実感する。厄年、厄年、まさに本厄がこんなかたちで降りかかったわい。
翌朝、入れ替わり立ち代り、点滴やおしっこの管や計器を外しに来る看護師さん達から、
「本当にこれから帰るの。」
と、何度も尋ねられた。どうも私は、何もかも常識はずれの患者だったようだ。

プロ

ギプスでは靴を履けないので、足の型をとって特注した装具と言われる代物を右足に着けての春の作業は誠に不自由なものだった。それでも、周りの力添えを受けながら、6月上旬には、予定通り13ヘクタールの作付けを終わらせることができた。
そして、装具を外す頃には、田んぼの周りに電気柵を張り巡らし、続いては草刈りに、水管理に追われる日々が待っている。しかし、これがまさに過酷なリハビリの日々。一歩一歩が、まだたどたどしいのに、そこは畦道、石ころ道、平らなところが全く無いところを、傷めた足で歩く辛さ,格好悪さと言ったらない。世の中、平らなところがこれほど少ないとは思わなかった。それでも歩かないと仕事にならない。俺はこれで生きているんだから、歩かなければ…。
タイガースの金本選手は偉いもんだ。これで生きてますから、プロですからって、手の骨折れてても打席に立って、連続フルイニング出場記録更新中だぜ。格好いいのー。でも待てよ、俺だって手術日の1日休んだだけだぞ。まあまあ格好いいぞ。
しかしながら、仕事中、なにくそこれしきと、ぎりぎり歯を食いしばり過ぎたせいだろう、昔の虫歯治療の埋め物が、一時に3つも外れちまった。くそー、かっこわるー。

2006年 春

故郷の友は…

私はかれこれ12年、ここ20年でたったの3回、故郷に続く関門橋を渡っていない。この冬、不思議に、私の素晴らしき高校時代を思い出し、家族に話して聞かせていた…、そんな矢先、高校の剣道部の先輩・後輩から、突然電話が鳴った。故郷を離れてから波瀾づくめで、当時の剣道部の皆からは行方不明になっていた私を、1年後輩のT君が、インターネットを駆使して見つけ出してくれたことによるものだった。その後、方々にT君が私の所在を伝えてくれたおかげで、20年ぶりにやりとりできるようになった。まずは私から、皆々様へメールを送ってみた。

皆さん、長―かごと、ご無沙汰しましてすみまっしぇん。中津隈です。…略…、京都の綾部市で稲作農家になっとります。…略…、今年高校生になる息子の成長とともに、九州の懐かしき思い出が、食卓の話題に頻繁に上がるようになった今日この頃、まさに1月20日、T君から突然電話をいただきました。ありがとう、T君。インターネットで私の居所を調べてくれたそうで、本当にありがとうございました。Tとその日、一緒に博多で飲んでいたJさん、Rさんとも電話でお話しすることができ、感涙したたりました。

高校卒業後、私は……略……。

私の独り息子が15歳。只今、野球に夢中です。純粋でひたむきな少年と対峙するこの頃、タイムスリップできるなら、東筑高校時代をもう一度…、と思う頻度が多くなってきたなあ、と感じていた矢先の1月20日、Tからもらった電話は、まさにタイムスリップでした。その時、電話で話したT、Jさん、Rさん…、電話の向うで目に浮かんだあんたたちゃー、みーんな坊主頭ばい!
その後、Mことミセス・Hが電話をくれて…。それがくさー、Mの顔が電話の向うで思い浮かぶとよー。シワひとつなか色白の華奢な女子高しぇいのMの顔たいねー。あーーーー、うれしかーーーー。
もひとつ言わしてくれんね。Tとか、Jさんとか、Rさんとか、Mとかの話に出てくるあの人、この人…、これがまた、ぜーんぶ、ぱんぱん顔が浮かんで、涙が出てくるとです!涙の向うの顔がこれまた、坊主頭やったり、ブルマー姿やったりばっかりで…くさ、本当に嬉しかです。
思えば通じるものというのでしょうか?私にとっては、どこにいてもふっと目に浮かび、忘れ得なかった皆様。こうしてメールできることに感謝、感謝、感謝です。どうかいま一度、皆様もタイムスリップしていただき、中津隈を記憶に復活させてくださいませんでしょうか。
すると…、

Oさんから、
波瀾万丈のメールありがとうございます。 20年振りですか。 当方、……。
Mさんから、
ほんとにお久しぶりです。年末のJからの一本の電話で、ここまで盛り上がることになろうとは・・、
Jさんから、
Jです。計り知れない苦労があったようですが、持ち前の明るさ、学生時代から衰えることなく健在の様で、何よりです。1月20日の夜は、ほんとに会話できて感動してます。Tに感謝です。
Rさんから、
Rです。お米を作っているの?今、私は……、
ミセスHから、
ふるさとに対して食いつきたくなる気持ち、よくわかるよ。毎年帰省している私ですらそうなのに、隈ならなおさらだと思います。で、黒ちゃんのアドレスお知らせします。
等々、続々と返信。そして、私が返信、また返信。そして、同級の「黒ちゃん」に電話をしてみた。すると、なんと彼が、遥々綾部にやって来てくれたのだ。
その日は、朝からそわそわ、そして夕方駅へお出迎え。「おーー…。」もうたまらん。手を握ると顔が火照って、涙がこぼれかけた。我が家に着くなり、「懐かしかー、飲も、飲も。」「おー。」
飲んでは互いの近況を、飲んでは思い出を、あいつやこいつの近況を語って、笑って、美酒に酔いしれた。1泊・2日で、20年分語り尽くす事はできず、別れの時はすぐに来てしまった。
「九州、帰って来いよ…、次は九州で会おう。」
「おー、今年こそは帰るばい…。」
目が涙でいっぱいになった。
高校時代、私は彼の弁当を、しょっちゅう盗み食いして追い掛け回されたものだ。それでも、20年以上音信不通だった私のために、遠く訪ねてくれてありがたい。彼を見送ると、不覚にも長渕剛の「乾杯」を口ずさんでしまった。
♪ふるーさとのともーは、いまーでもきみーの、こころーのなかーにいまーすかー♪
涙が溢れる、もうとまらん、俺は幸せもんバイ。
翌日、息子が高校の合格通知を持って帰って来てくれた。
「お前も良い仲間に巡りあえ!」
さあ、春が来た。ディーゼル音高らかに、いざ出陣!

2006年 冬

仰木彬先輩

母校の先輩、オリックスの前監督・仰木彬さんが亡くなった。’05年のシーズン中、一度も神戸の球場に足を運ばなかったことが悔やまれる。前回監督を務められていたころは、イチロー対松坂の対決を見たがる息子を連れて、何度も神戸に通った。神戸の球場はドーム球場ではなく、美しい天然芝だ。その上を颯爽と3塁コーチャーズボックスに向かう、当時の背番号72が今も目に焼き付いている。そのシャキッと伸びた背中に「いっちょやったるぞ。」という静かな気迫を感じ、「せんぱーい、俺もやっちゃるばい。」と、駆け出し農民の私は呟いたものだ。
仰木さんの七変化ともいえるオーダーの組み方や、人をあっと言わせる采配ぶりを誰が名付けたか「仰木マジック」と呼ぶ。だが、私は、もうひとつのマジックがあると思うのだ。仰木さんが選手を管理したり、理論の詰め込みをしないのに、そのもとで育つ選手が次々と大成していったことこそ、マジックではないだろうかと思うのだ。
近鉄時代の野茂選手と仰木さんの会話。
「自分のフォームで長い間やってきましたから、それでやらせてください」
と、言う野茂選手に、
「まあ、いいだろう」
と。ついでに、
「調整には自信がありますから、好きにやらせてください」
と、言う野茂選手に、笑って、
「まあ、いいだろう」
と、仰木さん。しかし目だけは笑わず、
「結果を出してくれれば何も言わないよ」
と、ポツリと言ったそうだ。
また、オリックスの監督に最初に就任した時のこと…。その頑固さから、前任の監督に干されていた若きイチロー選手のことを、基本形とは違うが良いタイミングで打っている。面白いのではないかな、と思うようになり、また、妙な媚を売らず、マスコミの変な質問には、
「その意味はわかりません」
と、答えている姿に、
「こりゃ、おもしろい」
と、思ったそうだ。頑固で、それまで培ってきたものにプロとして、男としての思い入れがある。そんなヤツに、
「決して押しつけるなよ」
と、だけコーチに告げて、
「男は腕白ぐらいが、ちょうどいい」
と、ばかりに、
「よかよか」
と、九州弁を連発したそうだ。
農樹通信 福岡県立東筑高校いつも心が熱く、これぞと思ったことは徹底してやる。遊びもまたしかり。苦難にあっても、「どうも無かー!任しとかんねっ」と腕まくりしたがるのが九州男児。多くを語ろうとせず、その行動で自分の意思をを示すことが男の粋。無愛想で、誤解を招くこともあるが、噛み砕けば、無類の優しさとひょうきんさを持っている。そうそう、俳優・高倉健さんも我が先輩。火野葦平の「花と龍」や五木寛之の「青春の門」などの舞台が我らの故郷、血が滾る土地柄たーい。
仰木さんは、野茂や吉井、イチローにも田口にも…、自分が信じる価値観、もう変えることのできない自分自身をさらけ出し、その男気を示し続けたのだと思う。そして、懐大きく「あいつはやれるはず」。また、優しくも厳しく「やれてこそ男、結果を出せてこそ男」と、黙して語らぬ男・仰木に選手は惚れ、なにくそっと奮起・大成していったのだと思うのだ。
おー、質実剛健、侠気果断(母校の校訓)。入れ替えようのない熱い血が流れる父のもとで育まれている稲よ、息子よ、大成するんだぞ。
’06年のシーズンは、仰木さんを偲んで神戸に通おうと思う。