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2008年 夏
熱き夏
7月に入ると、
「お天道さん、あんた怒っとんね?」
と、空を見上げて呟いてしまうくらい、肌を焦がし、痛みを感じさせるような日差しが降り注いだ。そんな暑さがやって来て、息子の高校野球最後の、短くも熱い夏もやって来ては去って行った。
彼は高校1年の秋に、腰椎分離症を抱えてしまって、もがき苦しんで、2年の秋まで満足に練習もできなかった。俺だったら腐って辞めているに違いないだろうに、治療とトレーニングを並行し、辛抱と努力を重ねて、迎える事ができた最後の夏。残すところ、私からしてやれることは、試合の全てに出かけ、背番号15に心の中で賞賛を、そして、チームへ声援を精一杯送ってやることくらいだ。私は、試合ごとに熱く、勝ち上がるごとに熱くさせられた。そして、中年のおっさんを青春真っ只中に引き込んでくれた連中に
「ありがとう」
と、言いたくなる。さらに、
「こいつらに一日でも長く野球をさせてやりたい。」
と、願ったのだが、ベスト4進出をかけた試合で敗れ去った。
欲を言えばきりが無く、残念だが、清清しい。熱くなれることがある幸せと、散っても花を咲かそうと努力を重ねたことの尊さを知り、彼もおそらく清清しく、そして、少しは自分を誇らしく思っているのではなかろうか?今夜は中華料理でねぎらってやろう。
応援団のバスが、選手達より一足早く学校に着き、息子を待っている間に、友人からメールが入った。球場を後にするとき、
「これで青春も終わりですたい」
と、打っておいた私のメールに対する返信だ。
「大丈夫、貴方の生き様そのものが青春です。」
だと…。うっ!
策士
その夜、中華レストランで、オーダーを済ませて料理が運ばれるまでの間に、
「野球を続けさせてくれてありがとう」
と、彼なりの言葉で話し始めるから、ほろっと来るではないか。
「こんなこと言える男に育っていたのか…」
と、今日までのことに思いを馳せる間もなく、
「進学させて欲しいので、お願いします。」
と、息子が切り出してきた。故障をして、トレーニングや治療を重ねながら野球を続けるうち、医療系の大学に関心を寄せていることは知っていた。しかし、それまであまりに漠然としたことでしかこちらに伝えられなかったし、お互いに、進路について語り合うことを避けるような空気もあった。だが、今回は違う。いかんせん話しを切り出すタイミングが良すぎる。この時を見計らって、伝える言葉も用意されていた。つまり私は、ヤツの策略にまんまとはまってしまったわけだ、と思えばおかしくなった。親父を手玉にとる息子を後押しせざるをえんだろう…。
区切り
妻はそれまでに、息子が話す学校の名をいくつか耳にするたびに、本屋で立ち読みなどしていたらしく、ちょいとした医療系大学の通になっていた。息子もこの日を境にして、積極的に進路指導の先生と話し、オープンキャンパスとやらにも出かけ、資料も日に日に増えてきた。さすがの私も資料に目を通し、妻の話しに耳を傾けるようになると、そのうち、
「ここが、あいつの思いに最も近かろう。」
と、いう学校が見えてくる。妻も、
「私もここだと思う。」
けれども、
「払えるん?」
と、言うじゃないか。
「ここを読んどいて…ね。」
と、開かれた学費のページに記された金額を見て、あっ!開いた口が塞がらない。
「…、まあ、オープンキャンパスから帰ってきてからの話しということで…」
と、お茶を濁す。
その日、ヤツは意気揚揚と帰ってきた。
「最高だった。感動した。」
なぞとほざいて、鼻の穴が膨らんでいる。例の大学のオープンキャンパスから帰ってきたのだ。台所で母親相手に雄弁になっている。
「こりゃあやばい、やばい。」
と、私は盃片手、テレビに熱中しているそぶりで通し、適当に酔っ払って早々と寝た。
すると翌日、
「クマさん、話しがあるんですけど…」
と、ヤツが来たー。
「昨日行ってきたらさあ、俺の気持ちにぴったりのとこやったんよ。」
「…。」
「行かせて欲しいです。」
「…。」
「お願いします。」
「全く、お前はひどいヤツやなあ。よりによって俺の誕生日に、目から火噴きそうな学費のとこに行かせてくれってか?」
「まあ、まあ。ねえ、クマさん、まだまだ元気やん。頑張ってくれよ。必ず親孝行するからさ。」
「なにぬかす、俺だって、元気そうに見えるだけで、一つや二つ病気を抱えとるかもしれん。」
「クマさんなら、まだ大丈夫。そんなこと言わずに元気でいてくれよ。」
「なんじゃ、学費出してもらわんといかんから、元気でいてくれってか。」
「まあ、まあ。クマさん、酒はいいと思うよ。でもタバコはやめなよ。」
「俺は意思が弱いけん、ニコレットの力でも借りんとやめられん。」
この時、一瞬ヤツの鼻の穴が膨み、そして会話は続く。
「お願いします。しっかりやりますから、ねえ、クマさん、お願いします。」
「まあな、こんなこと値切っても仕方ねえ。俺だってお前の親父だから、ここを志望するだろうとは思うとった。」
「と、いうことはいいの?」
「ほんとに、お前はひどいやっちゃ、こんな誕生日のプレゼントってありかあ。」
「ははは、ありがとうございます。」
私の誕生日の晩餐には、手作りのにぎり寿司がずらりと並んだ。妻からはリボンが掛けられた酒、息子から、これもリボンが掛けられた包みが…。中身はニコレット。
「まったく、ひどいヤッちゃ、うちの息子は。」
と、言うと、妻が返す。
「クマさん、何年タバコ吸ったん?」
「んー、19歳吸い始めで25年かあ。」
「四半世紀やん、いい区切りやん。」
だとさ…。44歳働き盛り、ええーい、禁煙4週目に突入だあい。
追記
息子は、学校帰り、ドラッグストアに立ち寄って、ニコレットを手にすると、自分が制服姿であることに気付いたそうだ。近くにいる店員さんに、
「構わないですか?」
と、尋ねると、他の店員さんを巻き込んで、その場で相談が始まったという。その結果、
「高校生に販売するわけにはいきません。」
と…。そして、慌てた息子は、携帯電話で妻に、
「大変だ、高校生にはニコレットを売ってくれないらしいから、買っといて!」
と、連絡をとり難無きを得たのだそうだ。
私の44回目の8月5日は、なんだか嬉し、悲し、やっぱし嬉しの日となった。
それから2週間もすると、朝晩涼しく、明け方は寒ささえ感じるようになってきた。ニコチンへの依存度は下がり、自分がアクティブになっていることに気付く。日中は日差し柔らかく、秋の気配。
今年は暑さの中、熱くなりながらも、清清しく、嬉しさに満ち満ちた、いい夏だった。
About 農樹
2008年 春
よっ、日本一!
表彰されたのは私じゃないが、そんなの関係ねぇー。グランプリなのだ。日本一なのだ。その栄冠に輝いたのだ。
表彰されたのは、京都市中京区の竹内康宏さん。数年前からお付き合いしているお米屋さんだ。五ッ星お米マイスターである氏が、「2007年度お米マイスター全国ブレンド技能グランプリ」なるコンクールに、我が家の米を主原料に、ブレンド米を創作して出品。全国3944名のお米マイスターの中で、「いっとーしょう!!」になったのだ、と…、よっ、日本一。
今年度のコンクールは、「寿司飯」用ブレンドがテーマで、出品した作品は、「粒がはっきりして、付着良好、20時間後も硬くなりにくい」との評価を得たのだとか…、いいじゃなぁい。うちのお米の特徴が出てるじゃなぁい…、よっ、日本一。よくぞ使うてくだすった。
この度のことをたとえるなら、氏が個性豊かな選手を束ねた胴上げ監督で、うちのお米はそのチームの4番バッター。さしずめ私が選手の親であり、トレーナーといったところかぁ。ばんざーい。
私達の出会いは大阪。米の産地関係者や生産者、そしてお米マイスターが会する交流会でのことだ。米の業界ではここ京都、ましてや綾部の米など全く無名の存在。そうとはつゆ知らず、のこのこと出かけて行った会場で、なみいる有名産地に群がる人々に、
「産地じゃないよ、お米の作者が誰かだよ。」
と、訴えるも、
「へえー、きょうとお〜」
と、目を合わしてももらえず、鼻にもかけられない有り様だった。私は、
「くっそー、あんたたち、香港でも行ってルイ・ビトンあさって、本物やったぁっ、偽物やったぁって、喜んだり悔しがったりしときゃーよか、ふんっ。」
と、心の中で叫んでいた。
そこへ、
「僕は京都の米をもっと扱いたいねんー。」
と、かの監督はやって来てくれた。私の米を手に取る監督のまわりの人達が、
「綾部って、どの辺り。」
などと、たあいの無いやりとりをする中、
「もっと白う精米せんの?」
と、精米のプロから見ると、これは如何なものかと言わんがばかりの問いに、
「これの方が美味いかと思うて…」
と、私が答えると、間髪入れず、
「僕もそう思う」
と、監督が言い残すと集団がわいわいと立ち去った。
私と一つ違いで、チームのスカウトも兼任する監督のやり方は、有名校の選手を物色するものではない。数日後、監督から、
「そっちへ伺おうと思いますが…。」
と、電話が鳴り、
「今の米の業界、こんなんやけど、僕はこの商売死ぬまで続けようと思うてます。」
との言葉。以来、季節を問わず行き来を繰り返し、なにおか言わんやのお付き合いが今日に至っている。
農家は田舎にしか居ない。当たり前のことだが、ただし、農家は田舎に居るだけではいけない。世の中には、「上」があることを思い知りながら、研鑚することが必要だ。監督と知り合って、
「こんなんもあんねん、くまさん、こんなんだってあんねん。」
様々な米を手に取らせてもらいながら、
「くまさん、全国区に打って出るには…、」
どうしよう、こうしようという米作り談義を、積み木を積んでは崩し、崩しては積むうちにチームは躍進したように思う。これが、俗に言う「コ・ラ・ボ」っちゅうもんじゃろか?
ハンディやコンプレックスも時には力になる。先の交流会で、
「きょうと?あやべっ?」
と、私をあしらうように言ったおっさん達の視線の先には、新潟の看板があった。京都から来ました「農樹」という得体も知れぬ看板では、ブランド好きの人々相手には屁のつっぱりにも成らないということ。
監督もまた京都・祇園で言われた言葉に、20年来コンプレックスを抱えているのだと聞いたことがある。それは、
「大学卒業して、米屋稼業に入ったころな、くまさん。祇園で飲んでてん。その時お姉ちゃんに言われた言葉が忘れられんわ。」
「へぇー?」
「くまさん、その姉ちゃんなんて言うた思う?」
「さぁー?」
「お米屋さんー?ふーん…。なんや皮剥いて売るだけの商売やん…てえ」
「きつーっ」
「…って言うかあ。ずーっと僕、それがコンプレックスやねん。」
と、いう話し。
一樹の陰、一河の流れも他生の縁。同じ木陰に雨宿りし、ともに同じ河の水をくむことは、たとえ知らない者どうしであっても、すべて縁によるもの…、意味のあることだと言うではないか。監督との出会いは言うまでも無いが、あの交流会でのブランド嗜好の人々も、祇園の姉ちゃんも、とても大きな意味を持ってくる…、なんて格好良いことを不肖・中津隈が考えられるのも、なんてったって「ゆうしょう」したからに他ならない。
春が来る。忙しくなる前に、
かんとくーっ、賞状ぶらさげて祇園でいーっぱい飲もかぁ。
About 農樹
2007年 秋
稲刈りが終われば、村人から、
「落ち着いたやろ、暇になったやろ」
と、声をかけられるが、とんでもない。お米の注文に対応しつつ、来年に向けて草刈りやねき上げ(田圃と田圃の境に溝を掘る)、漏水箇所の補修に加えて余計な仕事、けもの避けの電気柵の電線回収が待っている。籾タンクに貯蔵している籾摺りや、袋詰した玄米を倉庫に積み上げる作業は雨降りの仕事。籾摺りが片付けば、ピストン輸送で籾殻をせっせとダンプに積み込み処分する。大方の農家と違って、その仕事のどれもがワンサイクルやツーサイクルで終えられる量ではないのだ。農業を始める時は、もう少し「スローテンポで生きていく」はずだった。これほど田圃を預かるはずではかった。ふうっと、大きくため息を吐いてしまうこともしばしば。ええい、働くばかりではつまらん、息抜きも大事、息抜きも…。
魚釣り
16年ぶりになるだろうか、近頃魚釣りをするようになった。決して高級とは言えない舞鶴湾での投げ釣りだが、自衛隊の艦船や行き交う船を眺めながら、当りが来るのを待つのは心地良いものだ。空は青く波はきらめき、潮の香り優しい舞鶴の海へ餌を付けて一投目を投じるのは朝八時半。2本目の竿も投じると、シュルシュルッとリールの糸がほどけてポチャン…、
「よおしっ、いいとこ行った。」
さあ、これからが早起きした人間様にも餌をいただける番となる。カパッとワンカップを開けてひと口ぐびっ、
「んー、うまい。」
チクワかじってまた一口。メザシを噛み噛み、ぐびっと、
「あー、たまらん、ういーっ。」
極楽、極楽…。そこは平日の午前9時、舞鶴の海。
「サラリーマンしょくーん、きょうもいちにち、げんきにはたらきたまえー」
と、叫びたくなる俺の心は歪んでいるのだろうか。
この釣りの友は75歳、私を我が子のように扱ってくれるおっさんだ。
「ここは30年来通うとるんじゃ。」
と、言うだけに、釣り場に向かう裏道から、魚と人の餌の調達場、竿を振り込むポイントに至るまで熟知している。思い出話しがまたおもしろい。
「10年、15年、もっと前じゃったろうか…、」
おっさんがとり付かれたように、毎日ここに通っていた時分、毎日一人で釣りに来る小学生がいた。そして、毎日のようにそれを咎めに来る母親に、おっさんはある時言ったそうだ。
「あんたあ、そう勉強じゃ、宿題じゃあて言わんときな。この子はワシが見るところなあ…、」
上手に餌の支度をし、仕掛けをこしらえ、竿を振る前の段取り、その後の振る舞いに目を見張るものがある。たかが魚釣りではあるけれど、自分の目的達成のために、いかにすれば限られた時間で、より多くの成果を得られるかを考え、行動する力がある。
「やる時はやる子じゃでよお…、とワシは見た。この子に限ってワシは言うちゃる。がみがみ言わんとなあ、子が思うように狂わせちゃりないや。」
と、のたまったらしい。そして後日、おっさんがかかった魚に竿を引きずられ不覚にも、海の中へと持って行かれ、悔やんでいたところ、翌日もまた、釣り場に来ると、何とその竿が置かれていたのだという。少年が、おっさんのためにひとりで船を漕いで回収したのだそうだ。
「あの子も大きゅうなっとるじゃろなあ。」
道路からひょいと降りたその釣り場は、行き交う人々との声のかけ合いもまた楽しい。散歩の足を止め声をかけてくる人、遠足の小学生達などなどある中で、
「釣れてますかあ」
と、若者が車を止めて声をかけてきた。太い声できりりとした顔立ちにハンチング帽、長身で男前の好青年が、ガードレールを乗り越え語りかける。
「んー、今ふたーつ上げたとこじゃ」
と、おっさんが返すと、
「竿も餌もいーやん。まだまだ上がるよ。」
「そうか、そうか。」
と、若者との会話が弾むうち、
「ところでおっちゃん、名前は…?」
「ん、あん時の坊主?」
と、二人の思い出のアルバムが蘇えり動き出す。
「おー、お前なんぼになった?」
「27。今トヨタで働いとるんよ」
「おおきくなったのお」
「おっちゃん、年とったなあ」
「足がしびれるようになってのお、もう百姓はやめじゃ」
「魚釣りができとったらええやん」
海を眺め、時におっさんの横顔を見ながら、良き思い出話を子守唄のように心地よく聞いていた私の心はさらに和み、やわらかな息をつく。
「お前が拾うてきて、置いといてくれたじゃろ。あの竿、覚えとるかあ?あれのお、引き上げたらのお、魚がまだひっついとったでよお」
「ほんまかあ…。おっ、ひいとる、おっちゃん、ほらっ」
「おっ、よし、よし」
おっさんの竿にかかった魚を取り上げたり、餌を付けたりと嬉々としている青年の姿のその先に、彼の車の窓から顔をのぞかせ、微笑み続ける女性がいる。妻なのか恋人か、1時間以上もほったらかしにされながら、老釣師と戯れる彼を笑って見ている。
「この彼にこの彼女あり」
と、また心地良く深い息をはいた。
その日の夜、妻と息子にこの物語を話し始めると、二人は微笑みながら話しに耳を傾け、聞き入った。物語が完結すると息子は、
「いいねえ」
と、遠くを見るような眼で、その光景を思い浮かべている様子。妻はときたら、
「その彼と彼女は夫婦やないね。付き合い始めてまだ1ヶ月以内というところやね。それくらいの熱々ほやほややなかったら、普通、1時間ほったらかされて黙って待っとらんわ」
だ、と…。
俺は「浪漫」が解る息子がいてくれて…、よー。この上なく嬉しいわ…、ふうー。
About 農樹
2007年 夏
水
昨今、気象庁は何かにつけて、観測史上始まって以来という。今年も、梅雨明けの遅さは記録的だそうだ。梅雨が長く、雨量が多かったおかげで、ため池の水は、オーバーフローするまでになっているが、その裏返しの、暑くて雨が少ない夏がやってくるかもしれないと思っていると、案の定、約ひと月、雨が降らない。夕立さえない、猛暑日の連続だ。
ため池には、十分に水があるから、渇水の心配はない。しかし、毎日早朝、池のノミを抜きに行き、順番に水を田んぼへ給水してまわるのも、相当な労働なのだ。雨さえ降れば、ひと息つけるものだが、灼熱のお日さんのもと、田んぼ一枚毎の水の回り具合を見て、次を見て、歩いて歩いて、また次の田んぼへと給水。首筋とTシャツの、袖から先は真っ黒に日に焼けし、もともと色白な体の、首から上と腕だけ真っ黒けのコントラストは見事なもので、温泉に行くのが、はなはだ恥ずかしい裸体に変身してしまった。
猛暑の中、体内へ供給する水分量も著しく伸びる。500ccのペットボトルをラッパ飲みしては、トラックの荷台へ、こんころこんとやっていると、生茶に爽健美茶、おーぃお茶に十六茶と、飲料水の展示会場さながらになる。
これに、草刈りという誰もが嫌う作業が絡んだならば、私とともに働いてくれている氏とともに、その日の作業の最後の1時間だけ、水分補給を我慢する。そして、吐く息をぜーぜーさせながら我が家まで帰って来て、開けたらプシュッと音がする琥珀色の液体を、自らへのご褒美にふるまってやることになっている。
「ぷはぁー、たまらんー」
「うぃっ」
フィールドにおける水分補給は、ノンアルコール飲料2000 cc、アルコール飲料1000 cc…、これが午前中に仕事をやめてしまう場合でのこと。生きとし生けるもの、水は命なのだ。いくら汗を噴出しているとは言え、半日で3000cc飲めば当然水っ腹、妻はビールっ腹と冷ややかに見る。
「まあ、よかよか」
自分に褒美を与える理由は他にもあるのだ。
忘れもしない、昨年4月1日、足首を骨折してしまい、今でこそ明かせる、あの時は、絶体絶命のピンチに立たされた。立ち止まるわけにいかない自分に、今でき得るベストを尽くそう…と、言い聞かせながら、種蒔き、手術、また種蒔き…、ギプスを着けたままトラクターで代掻き、そして、田植え。
夏は、リハビリを兼ねた草刈り。稲刈りは長雨で田んぼの土がゆるんで泥まみれ。思い出すのもおぞましい昨シーズン。
しかし、体が満足に動かせないと頭は良く働き、物事をよく考えることができるものだ。一昨年は1町歩、昨年は2町歩と、尻上りに田んぼが増えていく中で、作業体系や施肥体系、その他抱えていた経営上のジレンマや不安を洗いだし、考え、再構築してみる。結論が出なくても、ヒントが生まれ、それらを、今シーズンは片っ端から実行してみた。そうすると、今年はうまく作業が流れていき、余力がうまれるから、好転スパイラルは上へ上へと登って行く。余力が好結果を生み、いつにもまして、田んぼは輝いて、進化しているという実感がある。日照りも、叩きつける夕立も、どこ吹く風よとばかりに稲も私もここに立っている。神様は試練を乗り越えられる者にこそ試練を与えられるのだ!と夕陽を背に興に入り、今宵また自分に褒美を与える理由はここにある。
ピンチの裏側
夏の甲子園で佐賀県の公立・佐賀北高が優勝した。佐賀の公立高校が全国制覇したのだ。佐賀なのだ、公立校なのだ。たまらなく、心熱くなり、目元熱くなりながら、
「よかったのぉ」
「ほんと、よう頑張ったのぉ」
と、連日、朝、昼、晩ごとにテレビに映る佐賀北高の彼らを祝福していた。そしてその都度、我が家にいる高校球児の今と重ね合わせながらテレビに見入ってしまうと、目から涙が溢れる。知らぬ間に、妻が横にいることに気づいた時は、即座に頭を上に向け、
「よかった、よかった」
と、立ちあがって、顔を拭き拭きその場を去る、といった数日間のある日…。ひとり昼飯を食べていると、テレビで、「佐賀北」をやっていた。
「おう、やっとる、やっとる(むしゃ、むしゃ)」
キャスターが、
「…、…、…。佐賀北高・野球部の部室の前には、『ピンチの裏側』という詩が掲げてあるんです。…、…、…。ご紹介します。」
と、…。私は飯を、むしゃ、むしゃしながら見ていると…、その『ピンチの裏側』とやらという詩を読み始めた。
神様は決して
ピンチだけをお与えにならない
ピンチの裏側に必ず
ピンチと同じ大きさのチャンスを用意して下さっている
愚痴をこぼしたりヤケを起すと
チャンスを見つける目が曇り
ピンチを切り抜けるエネルギーさえ失せてしまう
ピンチはチャンス
どっしりかまえて
ピンチの裏側に用意されている
チャンスを見つけよう
「…うっ、うっ」
また涙がこぼれきた。さあて、そろそろ、13回目の稲刈りだ!
No rain, no rainbow.
Hope shines eternal.
About 農樹
2007年 春
故郷にて
春になり、またもや故郷のことを思い出す。
島原から博多へ戻り、小倉方面に向かう電車に乗り込む。兄貴に電話をかけると、折尾駅の改札口で子供達が出迎えてくれるという。兄貴と13年ぶりに出会う私だから、小学生の子供達とは、当然初対面。写真でしか知らない2人と果たして落ち合えるのだろうかと、心細く改札へ向かった。まだ距離があって、暗く確認できないが、随分手前から、それらしき子供の影が動いている。駅員と何やら喋っているようだ。駅員と子供達のシルエットがあまりに馴れ親しげに映るものだから、我が血筋に違いあるまいと、確信をもって近付いた。すると、どうだ、『俊久君』と書いたプラカードを持っている。
「京都のおじちゃんばい」
と、呼びかけると、
「こっちばい、おとうさん待っとるけん、としひさくん」
と、返してくるじゃないか。こりゃやられた、俺は40過ぎたおっさんばい…。
充分物心ついてから私が生まれた9歳年上の兄貴にとって、弟はいつまでも、「チビ」なのだ。おかげで2人の小学生から、1泊2日がかりで「としひさくん」と呼ばれ続けてしまった…、まあ、これでよかー。
兄貴一家の新居に着くと、宝ジェンヌばりの美貌の兄嫁さんに出迎えてもらい、早速両親の仏壇に手を合わせた。
「ご無沙汰をしていました、御免。」
と、手を合わせる僅かな時間の中で、両親と兄の4人で過ごした頃の、何気ない日常が次々と、鮮やかに頭を過ぎっていった。
九州から帰ってからの冬のある日、息子がミスチル(ミスター・チルドレン)の1曲を聴かせてくれた。それは、あるアルバムに収録された中の『あんまり覚えてないや』という1曲だ…。その曲は、それまでの願いや、素晴らしいひらめきが形となって現れたり、手に入れることができた時のことは、以外と鮮やかなものではないものだ…。それを
『あんまり覚えてないや』
と、歌いながら、貴重な出来事こそ、克明に覚えているに違いないはずなのに、『あんまり覚えてないや』
そして、
『もったいない〜♪』
と。そして、その後にこう続いていった。スローテンポで…、
じいちゃんなったお父さん
ばあちゃんになったお母さん
歩くスピードはトボトボと
だけど覚えてるんだ 若かった日の二人を
あぁ きっと忘れない
キャッチボールをしたり 海で泳いだり
アルバムにだって貼り付けてあるんだもの
ちゃんと覚えてるんだ ちゃんと覚えてるんだ
ちゃんと覚えてるんだ こんなに
ドライブに出かけたり お小遣いをくれたり
たまに口喧嘩したり すぐに仲直りしたり
ちゃんと覚えてるんだ ちゃんと覚えてるんだ
ちゃんと覚えてるんだ こんなに
話しは前後するが、兄貴一家と過ごした翌朝、久方ぶりの里帰りの目的のひとつである、母校剣道部の初稽古に顔を出した。道場に入るや、私達に、よく稽古をつけてくれていていた、当時は大学生のFさんが、
「なかつくまっ、おおー」
と、駆け寄って、矢継ぎ早に話しかけてくれた。
今も地元に残り、母校を見守り続けるFさん曰く、この20数年間の中に、忘れられない試合があるのだと言う。それが、私が高校3年の時の、全国玉竜旗剣道大会での、大会3日目・ベスト64進出をかけた試合なのだと言う。高校剣士にとって、高校球児に置き換えるなら、甲子園出場にも匹敵するその一戦を、もちろん私も忘れられない。
もつれにもつれた試合の最後、大将戦で私が勝ち、ベスト64進出を果たすことができたのだが、F先輩が忘れられないと言ってのは、それがただ単に、劇的だったという単純な理由からではないことを私は察している。
かつては、玉竜旗大会を制した母校剣道部。F先輩の現役の時は、ベスト8まで駆けあがっている。しかし、それを境に、極端な低迷期を迎えていたところに、私達が入部して、OB会は色めいた。
「今年の新入生なら…、」
全国制覇も望めるというのだ。そんな声を耳にしながら、同期生みな稽古に励んだが、個性溢れる有望株が1人、他校の多勢対1人の喧嘩で失神。それが原因で休学、そして、退部。また1人は、女に走って離脱。ついでに、どうでもいいような連中が、喫煙やその他の理由で離脱してしまうと、同級生は、「やっちん」と、昨年遥々、私を綾部まで訪ねてきてくれた、「黒チャン」の3人になってしまったのだ。
やっちんは、膝の故障を抱え、涙ながらに稽古を重ねる。黒チャンは全くの初心者ながら、高校に入って剣道を始め、努力に、努力の無口な男。私はと言えば、新チームの主将になると、間もなく母親が逝ってしまい、満身創痍の3年最後の大会だった。2年生2人を加えた我がチームの、あの試合で私が克明に覚えていること…。それは、自分の一戦では無い。
試合の流れが、相手に傾きかけた時に登場した黒チャンが、粘って、粘って引き分けに持ち込んだ。あの黒チャンが…と、控える私に奮起の心を与えてくれたことが1つ。そして、大将戦に勝利した直後、両チーム整列して挨拶を交わす前に、竹刀を控えの席に置きに行かなくてはならないのに、私の膝がガクガクと笑っている…。そこへ、竹刀を俺に渡せとばかりに、駆けよって来てくれたやっちんの姿…、それこそが忘れられない。その他のことは、『あんまり覚えてないや』。
初稽古の後はOB会の会場に移る。受け付けに近付くと、今度は、OB会の会長を務めるTさんが、
「なかつくまかーっ、おおー」
と、堅く握手してくれ、その後約10時間飲んだ。
Tさんにも、しこたま稽古をつけていただいたものだ。
「なかつくま、よう帰って来た。お前の剣には力があった、力のある剣やった。よう、覚えとるたい。」
と、手を握りあう度、目がかっかと熱くなるじゃないか。
「覚えられとるばい、俺は…」
幸せものだ。
「覚えていること、覚えられてること…、決して忘れられないこと…、それには育みがあるよなあ。」
ミスチルは、育みあう幸せを、この歌で歌い上げているような気がしてきた。そして、最後の一節、
♪世界中を幸せに出来はしなくたって
このメロディーをもう一度繰り返す♪
俺が育みあった人々。いま一度思いおこして『このメロディーをもう一度』口ずさんでみようとするか、ね。