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2010年 春

農家の春

稲作農家に春が来た。野良仕事の手始めは、苗を育てるビニールハウスの中の、清掃と、整地。バックホーで草を削り、土をならす。ポンコツ機械のアームからオイル漏れを発見し、またもや修理代のことが頭を過ぎる。

育苗ハウスの整地

大学へ自宅から通学する息子が、昨年から良きパートナー。休憩時間の会話は、さわやかで濃い内容になってきた。

育苗ハウスの整地

向こうに豆粒のように固まっているのは、平均年齢80歳の三人組、近所のおっさんたちが、缶コーヒーを手土産に、若手の働きぶりを見学しながら、日向ぼっこ。

育苗ハウスの整地

仕事の邪魔にならぬよう、ハウスの隅っこで約3時間、たっぷり語らって、こちらに「はよ、しもてぇ」と、手を振り去っていく。無理せず、もうそろそろ、仕事終わりにしなよっ、てさ。その存在がのどかなおっさん。
次は、ハウスの外の、露地育苗の床作りに取り掛かろう。

雨降りに、映画

稲作シーズンが本格化しようとしているのに、雨ばかり。屋外作業は殆んど手付かずだが、種まきに向け、作業場のセッティングをこまごまとやっている。
ジェットヒーターを焚きながら、屋内作業をしながらの、息子との会話は充実していて、このうえなく楽しい。一昨日は、映画の話に花が咲いた。当年、19歳の息子の映画好きは、紛れも無く、この親父の影響を受けてのこと。
「くまさん…、」
息子から、そう呼ばれて19年。妻から、そう呼ばれて20年になる私に、
「DVD…、どうやった?」
と、彼が訊ねてきた。働き者の彼は、米作りの親父のもと、そしてパン作りの母のもとでバイトをしつつ、その一部を趣味にまわして、かつ、感動のお裾分けをもしてくれる孝行者。
4日前、彼から借りたのは、「ストレイト・ストーリー」という映画。実話に基づくその映画の主人公は、その名も、アルヴィン・ストレイトという73歳の老人。その彼が、杖無くして歩けなくなった矢先、十年前、喧嘩別れをして以来、音信不通になってしまっていた彼の兄が、倒れたという知らせが入ったあたりが、映画の序盤。
そこで、車の免許もなく、足腰が不自由になって、バスにも乗れない頑固な主人公の彼、「ストレイト」が、起こした「ストーリー」が、小型のトラクターで、兄のもとへ向かうというものだった。
時速8キロでしか走れない、小型のトラクターで560キロを野宿をしながら走破する、6週間の旅。

ストレイト・ストーリー/straight story

映画の冒頭、アイオワ州の満天の星空と、農村風景が映っていることに始まり、主人公・ストレイトが、兄のもとへ、自分の力だけで訪ねたい…と思う、「ストレイト」さ、頑固さと、道中の人々のかかわり合いを織り交ぜて、「ストーリー」が進む…。
私は、息子へ、「良かったよ。」と答え、ラストシーンと、冒頭の星空の映像のつながりを私ながら感じるところあり、思い出しつつ彼との会話を進めていると、もう、あっぷあっぷ。へその奥から、胃や心臓あたりへ染み渡って来て、涙流すか、叫ぶしかない感覚を隠して、あっち向いて、こっち向いて、上を向く。
「昔観た、高倉健さんの、幸せの黄色いハンカチを思い出したぁ…。」
何かで目がしみた素振りをしながら、
「それって、いいんか?」と、聞く息子に、
「いいにきまっとろうが、健さんぞ、健さん、俺の母校の先輩ぞ。観てみいーや。」
と、あっち向いて、上を見上げる。
It is the straight story.

雨降りに、比叡山

天候悪し、今日は26日。学生時代、お世話になったあの人の月命日。彼の眠る比叡山へ、おむすびぶら下げ、迫るこの稲作シーズンの決意表明に行って来た。山頂は、吹雪。ダウンジャケットを着てきて正解。猫背になりつつ、「真っ直ぐ過ぎた人だった」と、あの人のことを思う。その真っ直ぐさが、命を縮めてしまったのだと。
そして、お堂を出るとき、母校の先生が、話していたことを思い出した。

比叡山・京都

「私は、何事も真っ直ぐでなければ気に食わない。松の盆栽の枝振りが良いと言われるのを観ても、良いと思ったことが無い。松でも、山に真っ直ぐに立ってるやつがいい。」
土地柄だとは思うが、格好良さとは、自分を曲げずに貫くことだと信じて育った私。
しかし、世の中見渡して、真っ直ぐ過ぎると、得することが極めて少ないことを、遅ればせながら、ようやくわかってきたが、もう遅い。
後悔する理由(わけ)も見当たらなず、このままで、愚直な馬鹿さ加減のままの自分が、心地良い。
It is my straight story.

比叡山・滋賀

帰りの車中、息子が録音していたボブディランの「風に吹かれて」と、福山雅治の「道標」を、独り、差し替え、繰り返し聴き…。「道標」は、俺より少し格好良い福山君と合唱しながら帰ってきた。

農家の春

稲作農家に春が来た。野良仕事の手始めは、苗を育てるビニールハウスの中の、清掃と、整地。バックホーで草を削り、土をならす。ポンコツ機械のアームからオイル漏れを発見し、またもや修理代のことが頭を過ぎる。

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大学へ自宅から通学する息子が、昨年から良きパートナー。休憩時間の会話は、さわやかで濃い内容になってきた。

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向こうに豆粒のように固まっているのは、平均年齢80歳の三人組、近所のおっさんたちが、缶コーヒーを手土産に、若手の働きぶりを見学しながら、日向ぼっこ。

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仕事の邪魔にならぬよう、ハウスの隅っこで約3時間、たっぷり語らって、こちらに「はよ、しもてぇ」と、手を振り去っていく。無理せず、もうそろそろ、仕事終わりにしなよっ、てさ。その存在がのどかなおっさん。
次は、ハウスの外の、露地育苗の床作りに取り掛かろう。

ホームページ開設

ホームページ製作にとりかかって一年以上、やぁれやれ、随分な時間を費やしてしまった。
それもそのはず…。当初、製作にかかわってくれていた近所の友人と、打ち合わせと称して、我が事務所で出会えば、ついつい酒盛りに移行するのが常となり、一向に進展しなかった、というのが本当のところ。
その辺りの事情知りたる、OA機器の面でお世話になっていた㈲コークスさんから、「そろそろ、うちで作りましょうか?」と、声かけされたおかげで、完成に漕ぎ着けたものの、あのままでいたなら、開設はいつのことになっただろうか。
そもそも、私はウェブだ、ブログだという柄ではない。さらにまた、その体裁だ、デザイン、構築どうのこうのと、いじるセンスも無ければ、勉強する気も、全 然無い。そこいらは、人任せにしておいて、せっせと野良仕事。せめてパソコン嫌いな人間が、仕方なくディスプレイに向かう僅かな時間や、持てる少ない能力 は、世間に語りかける言葉を捜したり、それを作るために使いたい。
そんな私が、ホームページを開設しようと思い立ったのは、よそからここへやって来て15年、農業始めて15年、馬鹿と言われて15年…、
「歩んだ記録をまとめておけば、確固たるものでは無くても、農業や農村を考えてみようとする人への道標になれるはず。そして、ささやかながら、それを運営 していくうえで、語り合いが生まれて往けば、廃れて行く農業や農村に、善い意味合いでの、バタフライ効果をもたらすこと…、だって、あるかもしれない。」
と、いうのがその理由。
さて、ここに掲げる「農業梁山泊」は、過の友人と二人、いつも盃片手に語り合ううち、彼が私の気持ちを汲み取って、生んでくれた言葉だ。快心のこの響き は、アウトローの集まるところの、梁山泊でもなく、賢人の集まるところの、梁山泊でもなく、集い語らうことで生まれるエネルギーが、充満しているように思 え、彼へ拍手喝采、伊達に飲んだくれ、無駄に時間を費やしているわけでは無いことの証明だ。
その「農業梁山泊」…、この先、何者達の巣窟となって行くのか?飲兵衛が集まる口実にばかり、この言葉を使うのは避けたいな。

2009年 秋

遺産

9月末、北海道へ行ってきた。「大将」の遺品整理のため、友人から借りたハイエースとともにフェリーで21時間、旭川に4日間、帰路と合わせて1週間の旅だ。

ちょうど1年前のこの時期にも、私は同じ行程を辿っている。その時は、大将の49日の法要に合わせて旭川に赴き、広島に住む、大将の義理の娘さんたちとともに、彼の骨を持ち帰り、比叡山・延暦寺へ葬った。そして今回、主をなくして空き家となってしまった彼の家を、次の冬が訪れるまでに解体すべく、中の遺品を整理してしまうのが目的だった。
「大将」との出会いは、25年前。私が鳥取の学生時分、足掛け3年、毎日欠かさず通った居酒屋、その名も「蝦夷」の「大将」が、彼である。

当時、私の親父は病に伏し、入退院の繰り返し。仕送りを受けるわけにもいかず、卒業していく先輩から、5万円で譲り受けたポンコツ車に、長靴とヘルメットを常備して、大学と土木現場、そして下宿を行き来する日々。
「どうにかなるやろ」
と、軽く思っていたのが運のつき。稼いだ金を学費に向ける優先順位は低く、どうしても滞納してしまう。学生係の掲示板に張り出される学費未納者の中に、私の名前が含まれなかったことは、一度も無い。払い込んだ者から消されていく名前の中で、最後に残るのが、いつも中津隈俊久だ。しかし、挫けず、腐らずいれば、世の中まんざらでもないもので、鳥取の繁華街のど真ん中、下宿代無料、布団屋の2階の部屋を紹介され、私は飛びついた。
「あの店に近い。」
大将の店には、それまで何度か先輩に連れられて行ったが、店を出てから、
「先輩、ごちそうさん」
と、千円札を渡すのが関の山だった。

いざ店の近所に住んでみると、ネオンに惹かれ、あの店に惹かれ、つい足が向いてしまうと、支払いの心配を打ち消すかのごとく足早になる。「居酒屋 蝦夷」で金を払ったことが無いわけではない。だが、支払いをした記憶が殆んど無い。近所に住み、一人で行くようになって、数回は払ったかな。そのうち、奥さんが、
「くまさん、今日はツケだよ。いいねえ、おとうさん。」
と、大将に振り、夫婦でにやりと笑っている。次回も、次回もまたその繰り返しで、その日も、私が帰りにもぞもぞしていると、
「クマ、払いはどうでもいいから、お前、毎日、蝦夷に来い。」
と、言われたのを良いことに、卒業まで皆勤した。旭川出身、姉さん女房の奥さんと、私と十も年の差が無い大将から、弟のように可愛がってもらったものだ。この後も、学費滞納の張り出しは続いたが、当時の私にとって、酒のおかわり自由の夕食が保障されている豊かさは、今でも表しようもない。

勉強熱心で、何事にもストイックに臨む大将に、小柄ながら、道産子の気質であろう、大らかで度胸者のおかみさん。そして、二人の共通項は、その茶目っ気、といったあたりが、常連さんを引きつけ、離さなかったのではなかろうか。私の青春時代真っ只中、最も濃い時を過ごした人。

10年前、奥さんの病状の悪化から、鳥取の店をたたんで、夫婦は旭川へ。町外れの自宅を改造して、小さな料理屋を営んだ。しかし病状は好転せず、4年前に奥さんが逝き、昨年は大将までもが逝ってしまった。

生前、
「俺が死んだら、クマ、その時はよろしく頼む。」
と、彼が言った時、茶化したりしなければよかったのに、彼の遺志を今更探ろうとすると、胸が強く痛む。それを一人で想像するには、心が破れてしまいそうになる。しかし、心が裂けずに保たれたのは、1年前に会うことができた、旭川のあの人々のおかげだった。最期に大将が、親交を深めた人々、その誰もが、今でも暖かく彼を想ってくれるからこそ私は救われる。

遺品整理に、人々が駆けつけてくれた。足掛け4日の作業の大半は、食器の類の持ち出しだった。小さな店だったにもかかわらず、心づくしの料理を盛るために、方々から集めた器の量が尋常でない。家の解体にあわせて、スクラップにするには忍びなく、運び出して、日常使いあうことができたら最善と、ほぼ家を空にできたとき、
「お見事、お見事。」
と、大将が笑ったような気がした。

彼の遺品を詰め込んだハイエースで、小樽港へ向かう。道中、過の人々から、
「ご苦労様。気をつけて。また会いましょう。この次は家族と一緒においでよ。」

と、電話やメールが入る。誰一人血のつながりはないのに、大将を介したこの縁は、いつまでも、間違いなく続く、彼が残してくれた私への遺産だ。

救世主

北海道から家に帰り着くと、息子がまだ起きていた。向こうでの出来事と、北の人々からの言葉を、ひと通り伝え終えると、
「行こうクマさん、今度は一緒に北海道に行こう。」
と、息子が言う。
この春から大学生。自宅から自動車で通学する息子は、長期休暇や休日の9割方、私の元で農作業のアルバイトをしている。その彼が、1年前から気にしてくれていたのが、今回の私の「使命」だった。苗作りの頃は、
「田植えが終わったら北海道行くんか?」
田植えが終われば、
「北海道は?」
と、尋ねる。
「状況が許さんから、こりゃー、稲刈りの合間に、時間作って行くしかないなあ。」
と、答えれば、秋、ここぞとばかりの活躍を見せ、休憩抜きでコンバインを動かす。籾摺りとなったら、1日中でも米を積み上げる。すると、作付けの85%を占めるコシヒカリの稲刈りが、9月を1週間残して終わってしまった。まさにタフで心優しき救世主。
春から、トラクターや田植え機に乗せても、自動車免許を取りたての少年には、大型で特殊なものだから、怖気づいてもおかしくないはずなのに、
「よし、やってみるよ。」
と、乗り込んで、基本をはずさず、見る見る上達する。苗作りや草刈りといった、地を這い、息が切れる苦しい作業も、
「何ともない、何のこれしき!」
と、ものともしない。思えば、日に日に頼もしくなる息子を、喜ばしく思えてならなかった今シーズン、これら、踏ん張りの一端に、親父を北海道へ向かわせようとの、心が込められていたのだと思えてならない。
「よし、これで行ける。9月23日に北海道に行く。」
と、私が言い放った時、彼が見せた、達成感にも似た表情がその理由だ。
ハートがある、人の心の機微がわかる、いつの間にかそんな男に、息子が育っていた喜びを抱えて、昨日最後の稲刈りを終えた。

明日10月21日は、「大将」の家の解体だ。近々また、おむすび作って、比叡山へ報告に行って来よう。救世主の運転で、ね。農樹通信 比叡山延暦寺

2009年 春

堪えよう

高校卒業を控えて、滅多に学校へ行く必要も無くなった息子と、今日の昼は、親子丼を作って食べる。
「できたぁ、食うかぁ。」
「おー、食うかぁ。」
二人でがっついていると、テレビには中川昭一君が、イタリアでやっちまった画像が映っては消え、番組の出演者達が、
「薬を飲みすぎただけでこうなりますか」
「これは酒を飲んでいますよね」
など、真面目に話している。こりゃ、面白い。
番組は中川君の一日を時系列に、
「大臣の動き、ここまでは不自然ではないのですが…」
なんて、大真面目にやっている。これほどマスコミが心踊る出来事が続く政権は、滅多になかろう。麻生政権はマスコミの上得意だ。新聞、雑誌、テレビ、ラジオの各社、この不景気に経費節減できて嬉しかろうよ。永田町界隈を徘徊してさえいれば、得ダネなのだから。いやぁ、誠に面白い。踊る阿呆に、見る阿呆。はっはぁ、昼間っから、よたよたのおっさん眺め、にたつく俺も阿呆。

日本人として、恥ずかしさも、情けなさも、憤りをも、それらもろもろ親子丼と一緒にごっくんしよう。おっさんがしでかしたことを、見世物として捉えようではないか。日本では、日々を一生懸命働いて、まじめに納税の義務を果たしていれば、こんな滑稽な一幕を先生方から、見せてもらえる国家なのだ。勤勉で純情な、世界の田舎もんの日本人は、数十年もの長きにわたって、飽きもせず、お祭りのような選挙を続けてきたわけだ。そのお祭りで選ばれし先生方は、学芸会のような議会の場で、予めの質問に官僚様がご用意下すった答弁を「読む」と、読み間違える。もーっ、たまらん、面白くてたまらん。田舎もんの、田舎もんによる、田舎もんのための選挙と政治、とでも言うに相応しい。お国のことより、我が暮らし。民衆は利権を求め、政治家先生は権力を求めて、双方馴れ合いの世は続く。
息子にはこの騒ぎを説明しておこうと、話しかける。
「G7っちゅう先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議に日本を代表して出席したのが、この中川。経済危機の最中の国際会議だから、どれほど良い相談ができたか、世界の注目が集まっていたわけさ。そしたら、なんと、記者やカメラの前にぶいぶいに酔っぱらって出て来よった。こいつは。」
「…、ふーん。○○よりひどいなぁ、これは。」
「ひどいやろう。情けない、とっとと辞めさせりゃいいのにのぉ。ところで一樹、今、何よりひどいって言うた?」
「ん?くまさんよりひどいって言うた。」
「うっ、…。」
親子丼を噴き出しそうになるのを堪える私は、かろうじて息子に、
「このアホ!俺とこんなやつ比べるな!」
と、切り返すのが精いっぱいで、
「くまさん、これとそう変わらんよ。」
と、息子からくる、さらなる一撃に、そそくさと丼の残りをかきこんで、ごっくん、退散、退散。
近頃、親父面して下手なことほざけば、さらりと、そしてぐさりと切り返されるようになってきた。この時、本当は内心、
「俺がやる時はもっとすごいさ」
と、言おうかとも思ったが、自慢にもならないので、ぐっと堪えた。

徹底的にやろう

後日、ビートたけしが、何かの席で語っていたそうだ。
「中川さんは中途半端でいけねえな。G7のあれは、最初っから机の上で突っ伏しているとか、ゲロでも吐いて帰るくらいでなきゃね。」
そうだそうだ!半端もんめ。
たけしの言葉で、思い出した出来事がある。私の近所の友達が数年前、地元消防団の役員を仰せつかっていた時期があった。その日の夜、彼は、歴代の消防団長が列席する、年度初めの重要な集会を控えていた。しかし、そんな素振りを見せること無く、その日の日中、町内の仲間たちと、私の仕事を手伝ってくれた。仲間たちが集まり、加勢してくれた日の夕方は、酒を酌み交わすのが常となっており、その日も夕方から、気心知れた連中で酒をかっくらった。重労働の後の酒宴、1時間もすると、皆、相当に酔いが回ってくる。ましてや、人気者の彼には人一倍酒が注がれ、いよいよろれつが回らなくなったころ、
「こりぇかあ、ぼかぁ、しょーぼーーにひってきぁす。ごっつぉーさん。」
と、立ち上がろうとするが、正常に立ち上がれない。表情も酔っぱらい特有の緩みきったものに変り果てているから、誰もが止める。しかし、行くと言い出したらもう聞かない。彼は、つかまり立ち、あちこちにすがるように歩き、消防団の集会へと旅立った。
何度か転んで、擦り剥き傷を負いながら、その集会にたどり着いたのは、歴代団長様方の、御挨拶も終わり、大先輩方のご機嫌よろしく、乾杯の盃がかざされた、まさにその時だったそうだ。
「ドアを開けて、いやぁ、おそくなりましたぁ、もうしわけぇ、まで言ったら、おおーっ、ゲーって、俺はそこにゲロまき散らしましたがなあ。」
と、彼の後日談だ。
彼の話を嬉しげに聞くのは、先日のメンバー、手にはグラス。
「上等、上等。ほれほれぇー。」
と、また彼のグラスに、なみなみと酒が注がれる。
そうさ、半端じゃないんだ、僕たちは…。最近、彼は、我が家のホームページの立ち上げに苦心してくれている。